羽咋(ハクイ)能登語源7

「寺家(じけ)」はむずかしい-1

環状木柱列と縄文人

d0329286_20541762.jpg縄文人の遺跡で、環状木柱列を造った特異な文化圏があります。金沢市のチカモリ遺跡(写真)を撮って来ました。


新潟県にもあるとされますが、石川県ではチカモリの他、真脇(まわき)堂坂、手取川中流のほか、その後知られた物をを加えて計16にもなるという。富山と新潟(注1)は合わせて4カ所。

縄文期の終わりに近い頃の気候変動で寒冷化があり、縄文人の衰退で消滅したらしい。
チカモリの木柱の高さは、見学者らの安全を考え低めに復元されましたが、木全体の発掘でもない限り決めてになる高さ根拠はない、という学芸官の話でした。

(注1)糸魚川の寺地遺跡1カ所で最初の発見とされますが、4本柱で環状とは言いにくく、むしろ諏訪神社との関係を考えるべきかと思われます。
痕跡は家屋の柱跡と混在している場合も多く、環状列柱遺跡の総数には疑問を持つ研究もあります。
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「寺家→気多」移転とは?

スペース滝に近い寺家遺跡は現在の気多神社(能登一宮)とかかわった祭司遺跡とされます。

※遺跡の神社名は「気太神宮」が初見(748年)。20年後に「気多神社」と書かれた物が残っていますが、私見では初期(5〜6世紀ごろ)の祭祀場は渡来系人の韓音「気太(キデ)」発音であった可能性が大。中央からの管使や先住の民は韓音の「キデ」読み発音はせず、後には和語発音の「気多(けた)」に統一され、14世紀の地元権力者・畠山氏により現「気多神社」へと移転建立、とも推測できます。
※[羽咋ハクイ能登語源10「ケタ」]へ

 5世紀はこの周辺で須恵器などの工人がおり、
 6Cに寺家遺跡のあった砂丘に祭司の形跡が出来、
 7-14Cが活動期で、
 14世紀以降は気多神社(寺家町北部)に移行した。


d0329286_23395746.jpg北陸は弥生期の銅剣・銅鉾の出土はほとんどなく、鏡の発掘も少ない。代わりに土焼きの銅鐸や石の剣があったりします。
 小松市のJR小松駅裏、八日市地方(ようかいちじかた)遺跡では、多くの木製品で金属器の形をまねたものと、金属を被せて使うために木軸を削り欠いた木製の鍬(くわ)の刃などが出ており、明治大学の石川先生は思わぬ所から青銅品が(多量に?)出て来る可能性があると推測してます。
※土焼きの銅鐸は中国大陸の(えつ)の貴族の墓からも出土していて、北陸古代文化の揚子江流域との関わりを示唆する説も。

 気多神社のシドノ(火殿)や寺家遺跡の焚火痕跡をはじめ、能登には現在も各地に火祭りがあり、アイヌ人も火の神を家の中心に置いていたし、縄文人の遠くシベリアに行き着くルーツもある事をふまえると火が根底にあって自然ですが、環状木柱列が火と直接に関係した痕跡はありません。

真脇遺跡では2.52m長の丸太に抽象柄彫刻をほどこした通称”トーテンポール”が出土していて、これは縄文人のミシャクジなどの石信仰に繋がるとの見解が報告誌にあります。石器時代が先行しているので原型をそこに求め得ますが、イルカの再生を願った儀式に添えた漁道具のシンボルという見解もあるよう。

ヨーロッパなど世界各地のストーン・サークルなどの巨石文化古跡と、石川県近隣の環状木柱列の関連はありませんが、東北地方の環状列石遺跡と同じく、土地の産出で得られる材料をサークル状に使う共通性は興味深いし、東北地方と北陸のそれは何かの関連下のものかもしれません。

海路を渡して大陸とさえ交流した北陸の古代に、一つの信仰形態しかなかったとは思われませんから、大国主が当地に影響を及ぼして行った過渡期では、柔軟な宗教形式の合体や変化を見せて神社信仰へ集約して行ったと想像され、神社に残る像石(かたいし)や地震石、鎮座石などはそのなごりにも思われます。


中田虫人ムシンド

スペース滝 nkt@yacht.ocn.ne.jp
925-0005 石川県羽咋市滝町レ99-88  TEL&FAX 0767-23-4401


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by spaceTAKI | 2014-02-08 00:12 | ☆歴史/能登.羽咋語源 | Comments(0)