羽咋(ハクイ)能登語源9

羽咋(ハクイ)能登語源9

大国主(おおくにぬし)はいったい誰なのですか?

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刑事は「ズーズー弁で、亀田がどうのと、もう一人に話していた」と聞き込んだ。殺されたのは東北方言の男だと探したが、捜査は行き詰まる。事件のカギは東北弁と同じ「出雲弁」だった。

松本清張の名作「砂の器」は、東北弁が島根県でも話されているという事をヒントに書かれている。実は出雲方言は「シーシー弁」ともいわれる北奥羽の方言だという。


では出雲の大神、大国主のみことは「シーシー弁」を話したのだろうか?こんな新たな悩み事がはじまってしまうではないか…!

"シーシー弁の大国様"と、スズの関係

d0329286_21523443.jpg ことのおこりは、能登半島の先端「珠洲(すず)岬」からだった。伝説では「鈴」が語源で話がついているが、この耳慣れない言葉と漢字はとてもそんな子ども騙しのはずはない。

「すず、すす、しし…」何だかあやしい、アイヌ語を疑った。でも、それはみな失敗で、降参した。

▽能登半島の先端、珠洲市狼煙(のろし)には禄剛崎灯台がある。(by wikipedia)d0329286_1333375.jpg

すずは、のろし

「珠洲(すず)」は大和言葉であって、「狼煙(のろし)」の古語の「すすみ(煤見?)」が語源という。「なーんだ(がっかり)」。

能登の珠洲市にある須須(すず)神社の祭神と同じく、出雲東部の美保神社の神もミホススミ神と言って狼煙のことという。舟へ灯台の役目と、敵の来襲情報を知らせたんだろう。

「出雲国風土記(8世紀朝廷にて編纂)」にある”国引き神話”に、「高志(こし=北陸と新潟)の、都都(つつ=珠洲)の三崎」を出雲の美保の崎に引き寄せた(=造った)話がある。この「三崎」は前に書いた「寺家(じけい)」がある地区でもある。

大国主はこうして国引き(遠くは韓半島の新羅も)して大国を造ったわけだが、彼らの足跡は越中富山のJR呉羽(くれは)駅のある呉羽丘陵の「四隅突出型方墳(=四隅突出型墳丘墓)」に見ることができる。能登半島の珠洲の三崎(岬)をグルッと回れば、富山湾の神通川をさかのぼり、彼らの関係したこの地は近い。では能登半島の付け根あたりではどうかというと、気多神社をはじめ大国主を祭る神社がいくつも在る。ここも彼らとは縁が深い。

いわゆる「大国様」が大国主の命(みこと)なのだが、音が似ていて、後にインドの神・大黒天に混同されキッチュな姿の七福神の一人にもなったりしている。しかし、実はとても北陸にまでやって来たと思われはしないことが分かって来た。

なぜなら、わたしは出雲まで出向いたが(むろん書籍で)、大国主が実在したかさえはっきりしないのである。”砂の器”さながら、私の捜査は完全に行き詰まった。

スサノオを祭った人々


日本の神話にある、彼の6代上のじいさんが(実在すれば)須佐出身の「須佐の男(スサノオ)」だとは突き止めた。ネタ本は「古代出雲(門脇禎二),2003年,講談社学術文庫」である。

鳥取県出雲地方、西の平野にあった4郷のうち、杵築(きつき)郷は、杵築神社(今の出雲大社の地)に彼(スサノオのみこと)を祭ったので、ここの先祖に須佐の男がいたかと思われる。が、ここらの8郷のうち1、2を除き、大国主が活躍の足跡を残す弥生から古墳時代には、他域の侵攻に遭い出雲郷(=イツモ、源出雲)のほとんどが消滅していたという。

つまり、現在の出雲大社はその後になって大和政権の都合で改めてその地に建立したもの。あちこちの地域の異なった郷の神を、大和の宗教祭事にまとめあげていくためであり、出雲国の名が利用されたとも言える。

で、能登や越中に来ていた"出雲"というのは、当時この地を牛耳っていたオウ王傘下の者達であり、オウ王は元の出雲の東に位置する意宇(おう)平野を根拠地とした新勢力であり、「出雲氏」を名乗った、という。この出雲氏(岡山県・吉備か、広島県の山間部から山越えで出雲の東<鳥取県・妻木晩田遺跡>に出て、西進)は他には遅れたかたちで大和政権に取り込まれ、結局6、7世紀には「出雲国造」の官位を受け入れている。

言い換えれば、時をちがえて実際には「出雲」が二つあって、先に滅んだ国(源イツモ国)にスサノオがいたが、侵略して来たかも知れぬ方の出雲(オウ王国)が前の国の「出雲」(のつづき)の話に置き換えて、朝廷で創作されたのが「出雲風土記」。スサノオの子孫であるぞと、この国の当時の実力者(たち?)を"大国主"なる神とした(または、自分たちの祭神=大国主、を祭った)ので、別の名前も多数持つ神になり、「大国主」像は正体不明の歴史フィクションまがいになってしまった(またはわざとぼかした)らしい。
(この説は前述の出典の意に沿ったつもりの当方の理解で、仔細も省いていて分かりづらいかとお詫びします)



杵築神社→出雲大社。寺家遺跡→気多大社

同じようなことが、ここ能登半島の邑知潟地溝帯の平野でもあったかも知れない、とわたしは連想する。寺家(気太神宮)、大穴持像石神社、本宮、能登彦神社等と、新たに創建した気多神社の関係にまつわる伝承や文書が秘める地元での"出来事"のことだ。時代的には下がるが、似たパターンを見出す。がこの話も今は割愛する。

"能登アイヌ"は居た


私の興味は「語源」であり、大和政権の作り話が大国主の実体で、大国様が煙りと消えたとしても、とりあえずは問題ではない。
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地図にあるアイヌ語圏の範囲はユネスコが消滅危惧言語としているデータから借りた。かすかだが、富山や能登にアイヌ語が話されていたと見える。

アイヌ語はズーズー弁かって?それは無いでしょうね。元は似たものでも、別に変化して大和言葉とは違う道をたどった別言語でしょう。中田虫人ムシンド

スペース滝
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by spaceTAKI | 2014-02-17 22:29 | ☆歴史/能登.羽咋語源 | Comments(0)