羽咋ハクイ能登語源11
〜それは、滝崎とハクイの浜が秘める物語の始まりだった〜
収穫が済み、忙しい季節は終えていたが、冬に備えての仕事は多かった。
村長(むらおさ)が、若者に荷を担がせ、数人で宮の台地に登って来る。神へ感謝する儀式に秋の実りを捧げるためである。視界が開け水平線が見えると、若者の一人が
「あれを見よ!」
と叫んだ。それは10艘ほどの船団で、帆を掛けたもの旗印を上げたもの、見たことも無い大船団が海の彼方にあった。
「ヒコ、お前はこのまま荷を宮に届けよ、直ちにシドノで狼煙(のろし)を上げるよう頼め。白き煙ぞ、よいな。他の者は、すぐにここを離れて村長(むらおさ)らに、今見た事を粒さに伝えよ。我は宮に残る。また、全ての若頭(わかかしら)に武具を持って宮に集えと云え。よいな!」
「な、何でござりましょうか、あれは…?」
「分らん…敵であれば備えをせねばならぬ…。さ、早う行け!」
若者達は砂丘を転げ落ちるかのように駆け下りて行く。
神の子を名乗る「オオナムチ(大己貴命)」が率いる10艘、300人という見知らぬ異国の民が突然能登半島にやって来た日だった。兵士を含めた異国の人々は、光沢のある白い衣を着、手首や首に飾りをつけ、腰からは金色に輝く太刀を下げ、武人達はその上から鉄の鎧を胸にし、槍や弓で武装していた。色白で背の高い屈強そうな男ばかりだった。
船は、本体の丸木彫り舟に構造部分を造作加工した板張り木組みの準構造船だが、船首と船尾は外洋の大波に耐えるため、二重の波除けで反り上がっていた。山陰から能登への海には、北上する速い汐の流れがあり、流れに捕まった村人の命を奪うことさえある。それを掴めば労せず航行できる。
彼らは、寺家の岬から昇り始めた白い狼煙に吸い寄せられるように、岸に向けて舵を切ったように見える。それは太鼓や鐘の音に合わせた見事な櫓さばきの操縦だった。
「女、子供には海に近づくなと申して来ました」
若者が言った。次々に人が集まる。手には長い柄の付いた鎌などを持っていた。
「それで良し。大長(おおおさ)は居らるるか」
「うぬ」
と声がして、背の曲がった老人が顔を向け、近づく。
「旗印は出雲の国の者たちかとも思うが…この大群、以前とは様子が違うようじゃ。用心せねばならぬ…そうさの、ハクイの平地の者とモシカ山の造り部者から、二つ言葉以上の通(つう)の語り部を呼べ、女、子供とて構わん」
何人かが真剣な顔つきで大きく頷き、すぐに走り出した。
「何事であろうか…」
「分からんが、手出しはまずかろう、先ずはもてなす外はあるまいて…」
長老はそう言って長くのびた白いあご髭を固く握りしめた。
緊張した目は、遠い過去から何がしかの情報を思い出そうとするように歪んだが、以前、一艘の大船が漂着した時、彼はまだ二十歳前で大人達のやり取りを隠れるようにして遠くから見るのみだった。
その時の者達はここの沼地端にまとまって住みつき、開墾して田を作り、村をなし、距離を置きつつも、近づく者には作業のすべをおしみなく村々にも教え、共同の作業もし、今や指導する層として地域に根を張った。それはまた、この地に根づいたこの長老一族がかつてたどったという、祖先の言い伝えとも重なるものだった。
他国者が地元にとけ込めば、2、3世代も経ぬうちに母国語は急激に忘れ去られ、今や話す者はまずあるまい。反対に、持ち込んだ稲作や技術に付随した言葉や儀式は見事に広がる。しかし言葉の深い意味までは知るまい。かつて異国語を話した沼地端の者も立ち会わせるがよかろう。まずは船の者達と話しが通ずればよいのだが…と長老は思った。
〜深い意味を込めた新羅の王子への遺言なのか〜
イズモ族は(現代韓国語に近い)新羅(シッラ、しらぎ)系の語を話た、かとも思われます。
後世書かれた『気多社島廻縁起』という社伝には「気多大菩薩は孝元天皇(="欠史八代"8番目の天皇。10代崇神帝が4世紀に実在したとされる)時に従者を率いて渡来した異国の王子」とし、能登半島一体を巡行して鬼神を追放したと記されています。
同『気多神社縁起』では、同代に祭神の大己貴命(おなむちのみこと)が出雲から300余神を率いて来降し、化鳥・大蛇を退治して海路を開いたとも伝えてもいます。
イズモ族は出雲の東部の意宇(オウ)一族で、後に韓半島を支配する新羅に近い種族かと思われ、新羅はヤマトが縁を結んだ韓半島南の百済や任那とは敵対していました。ヤマトはイズモの背後に新羅を想定して直接対決を嫌い、それで日本海側の支配が他より遅れたとも考えられているようです。
前に「寺家はむずかしい」の(2)で「寺家(ジケ)」が奈良以降なら漢字で「役所・官衙(かんが)所」の意味、と私見を披露しました。
また、(1)では、アイヌ語なら眉丈山を見立てて「山の末端」「断崖の所」の意を導きました。
また、寺家をジケイと読む場合は「断崖の頭」の意味となり、珠洲市三崎の「寺家(ジケイ)」は能登半島全体をさす「山の頭」の意味が妥当か、とも書きました。
今回(3)では、「寺家」をハングルで読み解き、漢字そのものの韓語(A)と、日本音「じけ」に近い韓音(B)の意味の二方向から探ってみました。
A:寺家(漢字)=씨카(sシムカ)、사카(サカ)、사:카(サーカ):弥生かそれ以前の、上記のフィクションや社伝と、私が導いた韓語から、どの意味解釈を良しとされるでしょうか。それ次第で「寺家」の持つ意味が変わるはずで、「寺家」は今も難しく深く謎を秘めたままです。
「宮家(やしろけ)」
「民族家(ーけ)、父の血筋家(ーけ)」
「媤家(しけ)=夫の家」
B:じけ(日本語読み)→(韓音で近い言葉)=시케(シケ)、시심(シシm):
「やしろの辺り」
「街(市)の河口、同入り江」
(写真は羽咋市にある弥生集落の復元遺跡。準構造船イラストは埴輪などの資料を参考に描きました。50-60人は乗れるとありましたが、実際には荷物等がありますから30人乗り10艘としました。帆は無かったでしょう。神社資料の歴史的事実や信頼性は不明。特に時代がむずかしいです。)虫人
925-0005 石県羽咋市滝町レ99-88 TEL; 0767-23-4401