カテゴリ:☆歴史/能登.羽咋語源( 48 )

美大生になった当初、私は鶴来町から電車で金沢へ通った。

あるとき”武(たけ)さん”と言う和服姿の色黒で丸顔、細身の老人から、古文書を丸めた包みをいただいた。私の家族はまだ越して来て長くはなく、ここ育ちの母からの説明で”タケのじいさん”という名士らしいと知ったが、一体どういうことかさっぱり合点のゆかぬまま、ほどなく一家は鶴来から転出した。だからそれきり彼と会ってはいない。

別の日には大工と名乗る見知らぬ人が来て、新築祝いに贈る油絵を譲ってほしいと頼まれた。サインのない漁港風景の習作を何点か格安で売った。当時の人口は二万人ほどで、美大生やOBは私ぐらいで珍しかったとは思う。
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石川県でもっとも大きい手取川の、白山嶺から平野に出る扇状地の要が鶴来町で、川や町を見下ろす岡に縄文時代の中期集落遺跡があり、となりの「ふれあい昆虫館」につづけて墓地になるが、武さんの碑はその入り口にある。
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ある年の墓参のおり、閑雲と言う名にかすかな記憶があり、もしやと読んでみたら彼の碑だった。

d0329286_06504564.png当時「郷土史家」が美大生の若造なんぞになぜ古文書を託したか…それをを読んで分かる気がした。
今年の夏で私は74歳だが、彼は同年齢で亡くなっており、寄付すべき町立博物館もまだ出来ておらず、独り身の彼は町内でもっとも相応しいと考えた”文人の卵”に遺物を手渡し、3、4年後には世を去った事になる。現代美術を指向しながら能登で独り暮らす今の私を”仙人”呼ばわりした人がいたが、仙人は彼のあだ名だったと碑にある。

今、私は能登の古代史に興味をおぼえ、”郷土史家”みたいに古文書と格闘もするが、おかげで昔美術資料として買いためていた古木版刷りの絵本類を少しは読めるようになって楽しみが増えている。武さんからの物は、半紙に毛筆の証文の切れ端ていどで大した内容ではなかったと記憶するが所在は不明。探せば出てくるかもしれないが、これを含め吾が亡き後は誰に託せばいいものか、ふと気になる時もある。

美大生なんぞと言う者は、当てにはならぬと身をもって知ってるいるから、武さんのようにはとても考えないけれど、さてどうしたものだろうか…。虫人

秋日庵閑雲翁之碑
閑雲翁は明治二十六年十一月一日石川県鶴来町において 父武久兵衛 母みつの次男として生まれ 名を禪定 号を閑雲 自らは鶴城老人と称し 綽名あだなを仙人とも呼んで その居所を秋日庵と名づけた

翁は幼くして俳諧を嗜好 十七の時京都梅黄社花本十一世から 閑雲野鶴の語より俳号閑雲を命名され 大正十一年立机宗匠に列せられた

d0329286_06532687.jpg この頃より翁は 鶴来文化史の研鑽発揚に志を傾け 鶴来保勝会を主宰し 史跡名勝の保存に専ら意を用い 江湖稀な郷土史家と高く評価された 特に卓越した古文書解讀の才能を有した翁は 進んで文人墨客の遺作を世に紹介し 就中なかんずくつるぎ叢書全七輯は 後世不滅の偉業と言えよう
 昭和四十四年八月十三日 惜しまれつつ 七十四才の生涯を ここ舟岡山麓に全うした

     昭和四十五年☐☐拾日 松石山房☐之。



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夜明けとともに目覚めるので朝焼けを見ます。今朝、雲の端の輝きを撮ろうと窓を開けると海鳴りがグオーッと入ってきた。漁師さんは山からの反射音で海沖を知るとおっしゃってましたが、山脈全体が大きく唸っていて、波もない港の中心で音が湧いてる感じでした。
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地図は人類の移動ルートを遺伝子でたどった一部です。この研究は、細胞質にあるミトコンドリアの、ハプログループと呼ばれる短かいDNA箇所で行われるもので、女性にのみ遺伝情報が伝承され、最初アメリカ(先住民)から始められました。なのでアルファベト順でAなのです。
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これとは別の、細胞核内の男性Y染色体DNA・ハプログループ研究では、現人類の旅立ち(10〜20万年前)地点アフリカからABC順に名を付け、名称番号は異なります。

で地図は、アフリカを発ち、3万年ほど前にシベリアに来て、さらにアメリカ大陸に渡ったA(1万5000年以上前)が、新たに染色体突然変異を遺伝子に刻んだA2→A3としてアメリカ大陸で子孫を増やしたことを表してます。

一方、Aの女性の一人が突然変異した染色体ハプログループA4は、子孫が東アジアに広がっています。

その中の一人の女性からA5が枝分かれしますが、これが見られるのは日本(発現率7%)と韓半島だけ。発生は7000年前、縄文期です。

日本人特有DNAはほかにもありますし、大陸の南回りにも重要な流れがあります。日本人に7%しか見られないこれを取り上げたのは、狩野家9代目・養信がこれを持っていたから。分子人類学者の篠田謙一博士が発見した、誰と分かるハプログループA5の人は、今のところ2003年に墓の調査で判明した彼のみ、だそうです。


d0329286_20315804.jpg 先日七尾市美術館での作家・阿部龍太郎さんの講演会は立ち見が出るほどの盛況だったと新聞は伝えました。『等伯』は直木賞受賞作品になり、七尾は等伯の出身地なので今も関心が高いようです。

ご存知のように長谷川等伯は能登から京に上り、信長・秀吉の時代に隆盛の狩野派にライバルとして挑みました。ギンギラの絵も描いてますが、寂とした「松林図屏風」で有名です。が、近づけば運筆は竹筆のカリグラフィーにも似た激しいタッチです。

秀吉から支度金で大判100枚(1億円)規模の仕事を受けたり、300両(3000万円)の裏金献金をだまし取られたりで、あげく息子が死んだのは狩野派の陰謀だと殴り込みをかけ、自身大怪我。一月後は相手方の狩野永徳も急死…と何とも凄まじい。この”動”の時代に対極としての”静”の茶道が生まれた必然も分かる気がするというものです。

宗教では一向宗徒(浄土真宗)が信長と武力対決しますが、これを陰(いん)のエネルギーとすれば同じ鎌倉仏教の日蓮宗はアグレッシブで現実的な陽の力に溢れてみえます。当時この二つも時に敵対しましたが、真宗王国の北陸にあって等伯の養子先・長谷川家は日蓮宗の絵仏師で、画家の出発点でした。


日本人の遠い先祖の或る者は、シベリア・バイカル湖付近にいて夫はマンモスを追い、妻は極寒の雪の中、動物の毛皮で覆ったパオ型住居の中で火と子を守りながら、せっせと骨に絵柄を刻んで装飾を施していたんでしょう。
その子孫のひとりが日本まで来て何世代も経て、有力画家集団の狩野派9代目となり、覇を競った等伯と同門である日蓮宗の、東京の池上本門寺に埋葬されたのでした。

縄文時代といえば、人類史ではまだ日の浅い"血"のA5です。今後も長い時間をかけて広く浸透してゆくのでしょうが、"陽エネルギー連中"の現世に対する生命力はすごいなあ…と”陰エネ”派の私はつくづく思うのです。虫人
(作図は虫人、参考文献「日本人になった祖先たち」篠田謙一著、NHK books等)

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志賀町・阿部屋、弁天島灯台の紹介です。私がこの灯台を知ったのは最近でして、釣に来た昔も遠目にしてはいましたが、給水塔か工事用の鉄製のやぐらぐらいに思ってました。
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地元の方から灯台だと聞いて初めて弁天島に渡りました。
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こんな木造灯台はどこにもあるのでしょうか…私の灯台イメージとはえらく違います。ご覧のように結構大きく柱も25cm角以上あるようです。明かりはレンズ機構のない大型投光器のみのようです。
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小さな碑に「昭和三十年」と刻まれていました。私がまだ小学生だったころの建設ですね。
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('16.12.13日付け北陸中日新聞、榊原大騎記者の特集記事によりますと) 江戸後期に始まった志賀の瓦づくりが、ここから北前船で出荷されて「阿部屋瓦(あぶやがわら)」として栄え、灯台を建てたころは日本海側を制圧したが、愛知県の「三州瓦」をまねた窯へと投資をし、土が合わず歩留まりを悪くして急激に衰退した。
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で石川県では、京都からの職人が南加賀の美川町で「本吉瓦」の生産を始めたのが瓦の事始めとある。

実は同じく北前船の寄港地だった本吉は、半年間県庁を置いた明治の初めの混乱期に美川に改称されている。江戸末にここから移住した人たちがスペース滝のある”滝村”を造ったので、私んちのお向かいをはじめ本吉姓が多いですし、近隣には今も瓦事業所が複数ありますね。
虫人

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晴れの日が、夕方には雪だったりして安定しません…。
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この時季のみ鵜(ウ)を見かけます。
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港の天候によりますが、多くて4羽です。中に人が運んで来たものが2羽います。

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[鵜様道中・地図]:
師走の10日ごろ、鵜浦で1羽捕獲し(予備も1羽)、3人の鵜捕部(うとりべ=集落の方が持ち回り)が徒歩で3日かけて気多神社まで運びます。
夜中3時「寝覚めの神楽」等々の神事後、境内の灯を消し神前の案(=台)に2本のローソクをのみ灯した中、篭の蓋を開けてウを放つと、羽ばたきながら木段をのぼり飛び立って案にとまる。この仕草で来たる年を占う。この後は一の宮海岸に運び放たれる。

 寄る辺を求めて、となりの滝港に来たウを窓から撮ってるわけですが、穏やかで袋状の七尾湾と違い冬の外海は魚が深みに落ち魚影は皆無、ひもじい思いをしてるはずと同情していました。
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 あらためて知ったのですが、この「鵜様道中」(国の重要無形民俗文化財)では鵜捕部が「うっとりべ〜」と声をかけながら行く先、民泊する良川地区の鵜家さん方では魚を篭の中に入れてやるという。昔は抱いて口に入れたそうで、邑知潟で穫ったドジョウやフナを与えるように言われたという。
港のカモメたちは寒ブナのいる潟や田まで餌取りに出かけるので、ウも習えばいいのですが。

篭はアシ製、上の緑枝に御幣をかざる。イラスト(虫人画)でご覧のように白装束ですが、気になるのは脚もと。このだぶだぶズボンの裾を紐で閉じれば古代の神様の衣装にそっくりです。

参考に、明治時代の日本昔噺(おとぎぞうし)の挿絵で「玉の井」という題の登場人物・海幸彦(うみさちひこ)をあげます。首から下げているのは勾玉(まがたま)。

(※木版画を活字間に埋めた凸版プレス機・インク刷り)
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袖付け部分が面白い。派手な白リボンで袖を吊したように見える。表紙画や中面の竜宮でのタイやタコの姿も同じで、ただの飾りではなさそう。

(※表紙:石版画、多色刷り平版プレス、明治期)
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そこで、今度は百人一首のお公家さんをあげますが、肩がパックリ空いて下の着物が見えている。狩衣(かりぎぬ)と言って、もとは蹴鞠(けまり)などのスポーツ用だったものが一般化し普段着になったもの。

(※木版・墨・バレン手刷り、江戸期)
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でも、なぜ袖の付け根が開いたままなのにぶら下がっていられるのか。後ろで20cmほど縫いとめてあるんだそうで、袖をリボンでは結ばない。

今一度、本の表紙画を見ると、女性の両袖にもしっかり白いリボンがあるのですが、いったい何か。描いた人、故・小林永興にでもきくほかなさそうです。

鵜様道中の起源は、明治35年の聞き取り調査で、能登平定で大国主命(気多神社主神)がここに上陸した際、門主がウを捕らえて献上したに始まると伝えています。
近くの山中、日室の諏訪神社では、刃を魚形にした鎌を神木に打ち込む奇祭「鎌打ち神事」が行われますが、これは大国主の息子と関係するか、と私は思っています。虫人

▶歴史の窓「日室・鎌打ちの線刻怪魚」へ

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徐福(じょふく)が実在の人で、青年男女数千人と、織り・紙農漁業・木工・製鉄・造船技術者などを船団にして、日本列島にたどり着いたのは、「史記」や徐阜村の言い伝えから事実と言えます。一度は失敗、二度目は戻らずそこで王になった、という。教科書では扱いにくく意外にしられていませんが。

d0329286_16422146.jpg挿絵画家の西のぼる氏が「新聞を見た」といって、私が紙面に出るたびその日のうちに電話してくれ、お礼かたがたお宅にお邪魔しました。

作家の阿部龍太郎さんが「等伯」の次は某大学の先生と組み、西氏の絵で「徐福」を執筆し始めたばかりというので、古代史の話で3時間も盛り上がり、くたびれて帰りました。四国に着いた時の岩場の挿絵原画も見させていただきました。(私のしゃべり過ぎはやばい。息ができなくなることも)

地図をブログ用に作りました。船団は季節風で南に下り、潮に乗ってバラバラに漂着したと考えられています。

前7C〜3Cの昔と思われるも加えました。より古い海洋民族の「閩(びん)」国が南側隣接地で、を始め彼らこそが徐福よりも早くに列島に来て、大和ことばを定着させた連中かもしれません。虫人

 ▲[西のぼる展・七尾美術館]へ

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 [写真:上・阿部龍太郎氏、下;西のぼる画伯]


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福野・神明社「夜高祭」の行燈(あんどん)

富山県南砺市福野、神明社の5月1日2日の祭りで、神社は江戸時代初期の創建。

阿曽三右衛門が野尻野に新しい町を立てたいと願い出、64軒の家並みとなったが、大火で全戸が消失。2名が伊勢神宮からの分霊をいただいた帰り、県境の倶利伽藍峠で日が暮れ、人々は手提げ行燈(あんどん)を手作りし迎えに出た。それに意匠を加えた夜高行燈を御神燈として町内を練る、のが起源という。
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季節はずれのお祭り紹介になりましたが、同町のヘリオスで「菅創吉展」を見、ロビーに山車が展示されていたので紹介します。

イスルギ彦がらみで、能登姫の「杣山」に触れたおり、能登二宮(天日陰比咩神社)の主神「屋舩久久能智命(やふねくくのちのみこと)」の「久久(くく)す」は今の動詞「くくる、縛る」のことで、意味は"木こりの神"だと当ブログで書きました。
写真の山車の”くくす”を見て、縄文以来の日本の伝統美と技にあらためて感動を覚えます。夜高祭はここをぶつけて倒したり、行燈(あんどん)部分を壊すこともある”けんか祭”です。

行燈(あんどん)は青森のねぶた似のデザインに見えますが、古い写真を見ると、この部分が能登飯田の「燈籠山(とろやま)キリコ」に似ているので、写真家の渋谷さんのカレンダーを改めて載せます。能登と越中は同じ加賀藩ですから影響はしたでしょうし、北前船は海から青森の”ねぶた文化”も運んだことでしょう。
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↑(上)高夜祭の行燈山車、↓(下)能登の燈籠山キリコ
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寺家新屋敷(じけあらやしき)」交差点が、美術館のあるヘリオスと隣接していますが、ここは冒頭にあるように江戸の始めと新しい。福野の「寺家」も奈良、平安期なので、寺家という地名を全て大国主の古代にのみ関連さすのは問題がありでしょう…。虫人
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ギターの服部さんが、忘年会に持って来られ好評だったのが「赤飯まんじゅう」。
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羽咋市の昔の中心商店街にあり、今もがんばってるお店の一つ「あさお樹庵・菓子店」が唯一製造してるという。餡(あん)に代かえて赤飯が入っている。金沢や長野県などにも同菓はあるようですが、あっさりした甘さは、上に乗った栗が効いて上品。現代人好みかも。
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HPもあり、新聞、TVでも度々取り上げられている意欲ある経営をされている店。

当店舗がすでにこのブログ上で写真に写り込んでいました。これがそれで、左端に建物と看板が見えます。前の一画が火事でなくなり、私がマジックテープの縫製を頼んだお店は向かい側で品物ごと焼失。今も広場状態。
 ▷ [焼失]へ
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大伴家持(おおとものやかもち)が「寺家」の「氣太神宮」を訪れた748年、羽咋の海を詠った万葉集の一首がその包装紙にありました。
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万葉集はすべて漢字表記で、早いうちに読み方も不明となり、元本も存在せず、今知られる物は後世の写本や解釈なので、この筆も誰ぞの書家に依頼されたものでしょうね。
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「万葉集

氣太乃神宮(※1)にニ赴き参り海辺を行きし時作れる歌一首

  之乎路から 多多越え来礼ハ 羽咋乃海 朝奈記之太り 舩楫もか母
 (しおぢから ただこえくれば はくひのうみ あさなぎしたり ふねかぢもがも)


大伴家持」


訳:志雄路からまっすぐ越えてくれば羽咋の(※2)は朝凪ぎしている。船の舵取りがおれば(陸行しなくて)いいのに…。

(※1) 文献では「氣太神宮」と書いていて、「けたのかむみや」と読ませています。寺家遺跡(国道とのと里山海道交差地辺)にあった宮。
(参考:韓語読みでは「きでじんぐ」)
(※2) 文献では「波久比能海」(※3)で、邑知潟のことか”日本海”かは不明。潟を大きく迂回して神宮まで行ったとして、海岸か潟岸かで2説に分かれています。

でなく、私は結局途中からでも舟で行ったとも思うんです。歩行組の家来たちは村々を威圧行脚したかもしれないですが、歌を詠む気になったのは、家来が舟の持ち主を探し出す待ち時間の気持ちともとれるので。

また短距離の海岸コースを行けば、潟から海への河口(多分橋はないが浅いか)を渡らねばならない。大伴氏は武人だが身分は高く、実際の仕事(出挙すいこ=利子”徴税”)は家来たちがやったでしょう。舟は隠したらしく、見つからなかったかな…。ま、どの説でもいいのですが。

(※3)「(ひ)」:
アイヌ語では[ひ=い]で、[ひ]と[い]の区別はない。 ( [-i、hi]は動詞、形容詞に付き「-所」の意味)。
和・古語では[ひ・び・ぴ] ≠ [い、-い]。ひ、い、は違う語。

(はくひ);
咋らふ=食らふ、を仮に"くふ"読んだ場合の(四段活用)連用形は「咋(=食ひ)。大和以降ですが(平安以降は加えて「く」「く」)とも。ただし現代語の「食」はない。つまり昔は「はく 」発音だったが、アイヌ語でこそ「 はくが可なのです。古くから、久比を「くい」と読み、のち2漢字表記改名のおり『羽咋=はくい』と改めたとすれば、これは『羽咋が大和言葉でなくアイヌ語由来の”水田”の意味』説の補強文献になります。
※[=サク、かむ、くらう、おおごえ(『字統』白川静・平凡社)]で、「くう」はない。
(中田虫人)

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は〜い、はい。

長屋のおかみさんなら「あいよ!」と応えるだろうし、武士なら「おう!」とか返事するでしょう。


d0329286_21255291.jpg「争覇(The conquest)」は2006年制作の中国・春秋戦国時代の歴史ドラマ。北陸人なら多少気になる呉越の戦いと、20年以上の復讐劇(BC5世紀)の話。

なにしろ北陸辺りは前、中、後に加え、越中富山で西・東と二分する地域。もっとも越は「こし」で、呉の要は呉羽で「くれは」と読み、中国の呉・越と関連があるのかはナゾですが…。

ドラマ中で時々「はい!」「おう!」と発音し相づちをうつ。「ワンス・アポイン・ア・タイム・イン・チャイナ」という近代革命ドラマでも確かめましたが同じでした。

「はい」も「おう」も、中国語でしょうか?



800年程まえの「宇治拾遺物語」に比叡山の稚児が「えい」と返事すると書いてはいるが「はい」はせいぜい300年前からだろう、と書いたブログ記事を見ました。とすると偶然か?

念のため調べると中国語では要請応答(=承諾した)で「啊(ア)」「哎,唉(アイ)」と使うが、日本語の「うん」と同じ意味の使い方はしないらしい。耳が悪い私は「アイ!」を「はい!」と聞き違えしているか…。

韓語、アイヌ語でも日本語式使い方(「うん」の意味の「はい」)は見当たらないのですが、アイヌ語会話辞典で「Ku ibe rusui(=はい空腹です)」をやっと一例見つけました。が「ク」では遠い。でも縄文語はこれに近かったかもしれません。(「うん」はこの系統かも。ku→u→un→n、と閉口への変音) *1

韓語辞書には「hai」と言う返事語はありません *2。アイ[ai (아이)]という感嘆詞はありますが「あれ〜!」に近い意味。もっともわたしの国語古語辞典にも「はい」項はありませんが「あい」という返事語はあります。「あい」だった語を「はい」とひろめたのは江戸時代の寺子屋か明治政府かも。

中国の広東語(かんとんご)では肯定の返事に「喺(ハイ)」を使うとあります。広東省は南方の(広州)香港あたりで、呉越があった所は上海辺でかなり北になります。が、遺伝子学的には民族が昔、南下したと分かっています。
戦火からのがれ、南や、東の日本へ渡った人々がいて北陸に根付いたケースも勿論あるでしょう。呉羽の縄文初期遺跡からは南と北からの混合人骨が91体出ています。

今の日本語はカタカナ英語まみれですが、昔は中国語まみれなので「あい(はい)」は大昔からの中国語である可能性がとても高い。面白いですね。虫人

*1:アイヌ語会話字典(明治31年・金澤庄三郎・新保小乕著)では「E(お前) ibe rusui …?」の問いに「Ku ibe rusui」=「はい空腹です」の訳をしているのですが「Ku」は「わたし」の意味で、意訳が過ぎての「はい」記載の可能性が大です。他辞書では「Ku=はい」は見出せないので、アイヌ語では日本語の「はい(うん)」にあたる返事語は存在せず、返事語は組織立った軍隊などには不可欠でしょうから古中国語由来と見るのが妥当と思います。

*2..日本語と韓語は近似性が最も高く、また多くの漢語を含む言語。でも
日本語の返事語「はい、うん」とはやや違うニュワンスのようです:
네 [ne, ネ]:目上人への最上級の返事語「はい=yes」および反問の「は=what」(1970年刊・韓日辞典)。
      : 肯定、承諾の意のはい、ええ(2009年初版、韓日・日韓辞典)。
에 [e、エ]  : 意にそぐわぬ時の「ええい(くそ)」「いや、」。語調を和らげる「え…」。
자 [ja、ヤ] :注意喚起語「ハイッ」「さあ」「よし!」

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再生された粟津演芸場を見たついでの、当地ご披露。
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当温泉に「おっしょべ祭り」というのがあって、その新聞広告イラストを描いた時、資料をいただいた紙袋に印刷されていた古いイラストマップを大切にしていました。”故郷”ですから。
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で、訳してみましたが、自力不足で不明も、疑問も…。旅館の法師、のとや等幾つかは現存してます。

古地図、なぜ罫から「粟津」を抜いたのか不思議。「福井」は字を削ったあとのようでとても読めなかった。「柳ケ瀬」駅は昭和39年の廃止で現北陸本線から外れている駅。

地図は、木版画が生き人力車隆盛の大正か明治時代としたいですがはっきりしない。私の子ども時代は学校の位置には役場か警察があったはず。

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『岡本兵太郎
長がよう羹な入りも(=名入りの長ヨウカン? 我が父も『粟津羊羹』を長型で作ってましたが誤読か*註あり)
 知られたり湯のはな薫る
 能火の山里(=能火は野火と能美(郡)の掛け?)

やぶ入に祖母のうめたる
 湯の加減 梅宮

この里に湯浴みし誰は
 事繁き
世の身辛きと
 言えぬべらなり  前田 利鬯』

 ※前田 利鬯(まえだ としか)は、加賀大聖寺藩の第14代(最後の)藩主。
幕末で富国強兵を行ない、佐幕派として天狗党の乱、禁門の変、御所の警備などで功績を挙げ、戊辰戦争では幕府軍に与しようとしたが、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗れ、新政府軍に与し北越戦争に出兵。
明治2年知事。子爵。大正9年東京で死去、80歳。by Wikipedia

(「温泉に来られる者は世が辛いとは言えないようだ」=とは、動乱期を生きた自分を詠んだか…。)

この旅館、以前は別経営者の別の金閣の建物があり、頼まれて階段踊り場に壁画を描いた。美学生時代で気負って場違いの重い芸術的テーマ?を描き、後悔した。
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粟津温泉バス終点前のおみやげ店・山田屋あとには九谷研修所を出た男性が焼き物店をされてます。
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造り酒屋さんだった建物で現存してますが、「福久舞」だったか…。隣りに雲井旅館があり現・石川県美の館長・島崎さんのお宅でしたね。中田虫人(むしんど)
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*註:別の、ましな解読です。

長歌せば すな居姉も 知られたり …」

(=長歌ちょうかをすれば、すな居姉(コンパニオン)も知られる…)

「すな居姉(いね)」の「春奈=すな(砂)」と「=姉」は古語で、すなは大小(官)の小の意味がある。「砂居・姉」をあてると、今日で言うコンパニオンの意味にもなりそう。「知られたり」が、「連句を理解する(同席の彼女も参加します)」とまで意訳できるか。
あるいは「知られたり」を以降に掛かる句として「コンパニオン(の存在)でも知られる湯の華香る野火を焚く山里…」とすべきか。また訳が正しいかは私には分かりません…。虫人

スペース滝
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925-0005 石川県羽咋市滝町レ99-88  TEL&FAX 0767-23-4401


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高さが7m、栗の木を縦に半裁した方を外側にして10本、サークル状に建ててある。縄文期の「環状木柱列」遺跡は石川県と富山県を中心に今は20ほどが発見されている。

以前に、金沢市のチカモリ遺跡で撮ったブログ掲載の復元遺跡写真と比べると分かるが、ここ能登半島先の内浦(石川県珠洲郡能登町字真脇)の「真脇遺跡(まわきいせき)」の復元柱はでかい。私がちっちゃ…。(※文末註あり)
※チカモリ遺跡▶羽咋(ハクイ)能登語源7

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d0329286_08470510.png 真脇遺跡は縄文前期(BC5000年ごろ)から4千年間に渡って縄文人が定住していた貴重な遺跡で、低い山で囲まれたなだらかな斜傾平野盆地の一方が海に面す。イルカ魚や”縄文トーテンポール”と愛称のある彫刻柱が有名で、来訪者名簿には私たちの直前に沖縄県教育委員会の名があった。

下写真は、上方にある温泉施設のガラス越しで撮っていて、遺跡公園は土手下陰で見えない。
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ここのロビーにも拡大したレプリカが置かれているように、「お魚土器」と呼ばれるこの「真脇式土器」は遺跡シンボルの一つになっている。開口部に四カ所魚が口をあけて上を向いているようなせり上がりがある。縄文前期の物で、本物は黒く、均整がとれ、魚の頭は土器の中面にまで折れ込んで立体的に作られており、ふくよかで美しい。高さは50cmほどか。

岡本太郎をして「これは何だ!」と感嘆させたのは火焔土器(かえんどき)かと思うが、それは長野県信濃平野を中心とする遺物で、石川県では火焔土器と呼ばれる物は無い。しかし真脇遺跡縄文館で公開されている多くの実物には目を見張るものがずらりで、すごい! 行って現物を見てこそ感動する。(撮影は禁止)
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三本の柱の後に土こう墓があり、穴には板敷きの上に屈葬人骨があった。特別な人の埋葬という。
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発掘はつづいていて現場も見学出来た。
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水を多く含む黒土から色んな物が顔を覗かせ、今後も出土品が尽きなさそう。4mの地下(7千年前)からも出土し、発掘済み域は、国が買収した指定地のみでさえまだ4%程度ときいた。私有地を含めればいかばかりか、真脇おそるべし…。 (虫人)
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d0329286_22115855.jpg※注:
復元の柱高は、土中から出た残根の根元から上までのテーパー(細くなる割合)で木の幹高(枝分かれ未満の有効部)を出し、それを柱高としていると聞いた。

長さを目一杯で切ったことになるが、チカモリ遺跡(金沢市)や、最初の発見地・寺地遺跡(写真=新潟県糸魚川市)の復元は短くて半端に切った感じがぬぐえない。真脇では木の芯をはずして薄めに半裁しているが、高さと地中に埋めた分で得られる掘建柱の安定性では、埋め込む深さが同じ場合、同じ底面積の丸太よりも土接触面が多くなり高く立ち得るだろう。環状聖域がここでは空を指向するように見える。寒冷化の気候変動と関連するか…。虫人


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