カテゴリ: 田中雅紀(花丸ゆう)自伝( 12 )

景観樹(金沢)
田中雅紀

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 昨年の秋、私は金沢市内の親戚の家を初めて訪問した。築50年以上という家の前庭には大きな梅の木があった。根元に立て札があり、「景観樹」と書いてあった。そして下記のような説明が。
                     景 観 樹

               1 樹種 ウメ ( 紅梅 )
               2 指定番号 第2号
               3 指定年月日 平成14年2月25日

                加賀藩士であった篠原一孝の子孫に
                よって植えられた。初春、美しい紅色
                の花を咲かせる。

                      金沢市
私は「景観樹」があることを初めて知った。親戚さんは他の記念樹を松や柳など2~3本市内で見たことがあるそう。

私は、来年の春に梅の花が咲いたら観せてもらうことを親戚さんに約束していた。昨日( 3月27 日)、満開なのを電話で確かめてから観に行った。

梅の花は想像した以上に美しかった。花の密度が高く、薄紅色があざやか。天気にも恵まれ、しばらくは幸せな時を過ごした。

桜はまだ早いが、街中はもう花の季節になっているのに気がつく。  ( 田中雅紀 )

スペース滝
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[田中雅紀氏のページ]

介護保険のことで意外な話を聞いた。

介護保険は40歳から加入して、65歳から介護サービスを利用できる。
サービスを受けるには、市に申請し、認定調査をへて要介護認定、「要支援 1 ~ 2 」「要介護 1 ~ 5 」のどれかに選ばれ、等級におうじたサービスを受ける。1、2、3、4、5 の順に不自由さが重い。

私の母は3年前から介護病院に入院しているが「要介護 」のサービスを受けている。私自身も1昨年妻が1ヶ月間入院したとき申請して、「要支援 2」の認定を受けた。
私は障害者1級( 1~ 5 と障害が軽くなる )の手帳をもらっているが、認定の基準差に少しおどろく。昔と比べると色々厳しくなっているのだろう。
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「要支援 2」の私が希望したサービスは、日に1度夕食の弁当を1ヶ月間配達してもらう。それに、週に1回介護士さんにシャーワーで身体を洗いにきてもらうことと、着替え。着替えたものの洗濯。(介護士さんは男性にお願い) これらは民間の業者に依頼され、かかった費用の1~2割が介護保険から支払われる

これらの支援を受けて、1ヶ月間なんとか1人で過ごせたのだが、後から気がついたことは、1ヶ月ぐらいだったら介護保険を使わなくてもよかったかも、と思った。「要支援 2」だと援助される金額も少ないし、何より申請の手続きが大変。民間の業者ならネットや電話帳でも調べられるだろう。でもこれは経験して初めて分かったことだ。

私の母は病院のベッドに寝たきりで、寝返りもできないし、食事も自力ではできないので、胃に刺したチューブで液体の栄養を摂っている。こういう状態で「要介護 4」。

私はなぜ最高の「 5 」でないんだろうと前から不思議に思っていたが、先ごろ介護施設関係の仕事をしている友人が教えてくれた。「寝たきりの患者は手がかからない。それより大変なのは、重い認知症などで、外を彷徊したり、危険な物を口に入れたり、等々、少しも目がはなせない患者。」これが「要介護 5」の人だそうだ。
なるほど、と納得したが、歳を重ねるということは何と大変なことか。

私も来年は70歳。願わくば、サヨナラ、と笑って逝きたいもの。(田中雅紀)

[補足コメント]
「スポコン君ー10」のコメントでしたが、図解を入れて独立ページにしました。(編集者)


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[田中雅紀.自伝]
花丸ゆう


40歳半ばでストーリーマンガを諦めた私は、「花丸ゆう」というペンネームで4コマ漫画の投稿を始めた。

最初に作品が採用になったのは芳文社の「まんがスポーツ」。やくみつる氏がメイーンの4コマ漫画の専門誌だ。稿料は5千円。25年前には千円だったので5倍に。私は「スポコンくん」というシリーズを描き始めたが、まもなく「まんがスポーツ」が廃刊になってしまった。

しかし、すぐ同じ芳文社の「週刊漫画」から声がかかり、95年1月から「危ない人々」の連載を開始。連載は週1回4頁で、4コマの作品が7作載る。週7作というのは、新聞の朝刊の連載漫画と同じ数。頁は1年間で336頁。私は年間こんなに多数の原稿を描いたのは初めてだった。そして読売新聞の石川版にも週1で1コマ漫画を描いていたので大変だった。
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4コマ漫画は1年間で終わり、次の年からは4頁1話完結のギャグ漫画で、交番のお巡りさんが主人公の「花の番外地」を連載。これも1年間続いたが、連載の人気ランクで中の上、それ以上をとれなかったので「週刊漫画」を切られた。厳しい世界だ。

それ以後私は4コマ漫画を描く意欲がなくなった。書店に並ぶ4コマ漫画専門誌のどの作品を見ても、私の描くものとはかけ離れていて、少しも面白いと思えなくなったからだ。

こうして今にいたり、現在マンガの仕事は読売新聞の1コマ漫画「漫画週評」だけ。

「漫画週評」は数年前から小松市在住の"びごーじょうじ"氏と1週交代で描くようになったが、ついでに紹介すると、"びごー"氏は以前読売新聞がやっていた1コマ漫画の「国際漫画大賞」で大賞を受賞した方。私「花丸ゆう」はこの賞では佳作どまり。大賞の賞金は100万だったか200万だったか。佳作は賞金がなく記念メダルだけ。桐の小箱に入った立派なメダルだったが、私は5千円でも1万円でもいいから現金でほしかった、と強く思った覚えがある。

私のマンガ人生はつくづく佳作どまり。でも見方をかえれば佳作も立派なものではないか。

よかった!  よかった!(田中雅紀)



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[田中雅紀氏のブースページ] 田中雅紀.自伝

1マンガ家の歴史

自分の作品の履歴を書くにあたり、押し入れから昔の掲載誌をひっぱり出し、何十年ぶりかで全部読み返した。
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短編約70本。単行本4冊。これが、田中雅紀(まさき)の全作品。

ホームランはなく、ヒットが数本。マンガの稿料だけで生活できるほど収入があったのは、デビューから25年の間に5~6年というところ。第一線で長く活躍するということは至難の業なのだ。

次々と若い才能が後ろから追い越してゆく。新陳代謝が早い。この代謝の速さと、すそ野の広さが、いまの日本が世界に誇る「MANGA」を支えている。私は大したマンガ家ではなかったけど、すそ野の1人としてマンガ界に何かの役にたったかもしれない。そう思えば少しは満足できる。

このブログの主、中田虫人氏に勧められて、70年代マンガが一番元気だった頃の1マンガ家の歴史を紹介させてもらいました。これを読んだ方々が興味を持ってもらえたかどうかは別にして、私はけっこう自慢話もできたので楽しかった。中田さんありがとう!!

ストーリーマンガの田中雅紀は40歳半ばで力つきるのだが、この後田中雅紀(まさのり)は「花丸ゆう」というペンネームで4コマ漫画を描き始める。この話は、おまけで次回に。(田中雅紀)


[虫人の蛇足コメント]

「おまけで次回もう1度だけ」と締めた投稿でしたが「おまけで次回に」と私が勝手に直しました。

ここで田中さんに退かれても”スペ滝の主”は困るのです。一線から退いても田中雅紀氏自身は健在ですから、当ブログには何らかの形で居座っていてほしい。

私は身障の3級になって3年。心臓バイパスのあとの腹膜炎で腹中にメッシュを入れたためです。5月の「小品展」はどうにか終えましたが準備を含め2ヶ月は長くて結構しんどかった。ボランティアさんたちのおかげで成功のうちに終わり、順調に後片付けしてるところです。

d0329286_18225462.jpgところで田中さんは私より重い身障者で、松葉杖を放せない。仕事ぶりを拝見すると、ペンを拳の内に握り、短刀でも持つかのような具合なので筆圧が強くなる。で、細い線は紙の端っこを左手の中指の第二関節あたりに挟んで机上から宙に浮かせて描かれる。曲芸みたいだが、それで私より随分と絵がうまい!

子供のころから、関節の骨があちこちで癒着する病気だった。病院や施設の中で成長されたが、本文から汲み取れるけど、謙虚で、身障のことで不平や恨み節を聞いたことがない。年齢は私より1つ若く、出品者の挿絵画家・西のぼる氏などとも似た同世代で、尊敬と誇りの友人たちです。

だから、まだまだ何かやっていてほしいのです。このブースを使って連載マンガを、なんて夢見てますが…皆さん、どう思います?
(虫人)


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[マンガ家・田中雅紀氏の自伝]
アシスタント


マンガを描いてきて幸せだったことは幾つもあるが、その一つはマンガを通じて多くの友人や知人ができたこと。友人は、今は年賀状だけの付き合いだが北海道にも沖縄にもいる。変わった人では前進座の役者さんもいる。

そして、最近気がつき自分でも「これって、すごくない!?」と思ったことがある。それは、むかし私が仕事を手伝ってもらったアシスタントの女の子たちの中から5人がマンガ家になったことだ。地方にいて仕事量も少ないマンガ家のアシスタントから、びつくりの数だろう。

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坂田靖子さん、花郁悠紀子さん、橋本多佳子さん、波津彬子さん、かまたきみこさん。当時はみな20歳前後の女の子だったが、もちろん今は‥‥‥。

今年2月に読売新聞の「ひと模様」で波津さんが紹介されていて、写真で久しぶりにお顔を拝見。可愛い良い感じのおばちゃんになっておられた。

男性でアシスタントしてもらった人はただ1人、このブログの主中田虫人氏だけ。

5人の中で26歳の若さで逝った花郁悠紀子さんのことを思うと残念でならない。単行本を幾冊も出し、すでに高い評価をうけていたが、これからが楽しみ、というところだった。入院中の病院から私に初めての電話をくれて、「田中さんも身体に気をつけてくださいね」。その言葉を今もときどき思い出す。
いい遅れたが花郁悠紀子さんは波津彬子さんのお姉さん。(田中雅紀)

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[マンガ家・田中雅紀氏の自伝]

ビッグコミックの「岩鉄事件簿」シリーズが好評で他誌からも推理物の注文が増える。
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朝日ソノラマの「マンガ少年」に「ドジマンとその仲間たち」を隔月連載。この2作は後に同社から単行本として刊行。

1978年10月 双葉社の「漫画アクション増刊号」に「田中雅紀論」が見開き2ページで掲載。筆者は川本三郎氏。
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論評の内容は「私の好きな作品に「岩鉄事件簿」がある。作品は絵も平凡。起きる事件もトリックも普通。主人公の刑事もくたびれたサラリーマン風。だがこの平凡さが物語をリアルにする。作者は平凡の恐さをよく知っている」。大体このようなもの。

私はお礼の手紙に、出たばかりの単行本を添えて川本氏に送った。2冊目が出たときも送り、氏からは手紙とハガキで2度返事をいただいた。

その当時私は川本三郎氏のことは、マイナーな映画(日活ロマンポルノ等}や無名の漫画家などを好んで取り上げている評論家としか知らなかった。だが氏は元「朝日ジャーナル」の記者で社会的にある大きな事に関わったことで有名な方だったのだ。その事件のことは後年の氏の手記「マイ・バック・ページ」に詳しく書かれている。この本は一昨年映画化された。

川本氏は今も数々の著作で活躍されているが、私はこの方に評論されたことが大きな自慢。(川本氏に興味をもたれた方はネットで検索を!)/田中雅紀

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ビッグコミックの企画で初の原作付き作品。原作者は真樹日佐夫氏。
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氏は「巨人の星」や「あしたのジョー」などの原作で有名な梶原一騎氏の弟で、少年マガジンに連載、不良高校生が主人公の「ワル」の原作がある。

絵がそんなに上手くない私に、なぜ原作付きを?と不思議なのだが、その後他誌からも注文が続いた。

当時、原作は400字詰めの原稿用紙に手書きのものが多かったが、真樹日佐夫氏はすごい達筆(?)で読むのに苦労した。

推理作家の森村誠一氏のときは、短編集の単行本をもらい、そこから作品を選んで私がマンガ用の脚本を作ってから描くことになった。(田中雅記)


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初のシリーズ作品

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「ビッグコミック」でのシリーズ。あるドヤ街の住人たちの人間模様で,1話完結、全4話。この作品で初めて自分の作風というか「型・かたち」を掴めたと思った。

私の弟は今でも「兄貴の作品の中では、あれが一番いい」と言ってくれる。私の単行本は推理物ばかりなので、このシリーズを単行本に残せなかったのは残念。
(田中雅紀)


[虫人の蛇足コメント]
面白そう。何かの機会か方法で読みたいですね。このブログ上での公開ってのはまずいんでしょうねえ?(中田虫人)



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[田中雅紀.自伝]
講談社少年少女漫画新人賞



d0329286_11194584.jpg23歳頃「第1回講談社少年少女漫画新人賞」に応募し佳作受賞。上京し授賞式に出席。会場は講談社の別館。

式のあとパーティ。受賞者は4~5人いて、みな若く学生服やセーラー服の子もいた。

佳作の賞金は3万円。副賞に置き時計。(写真)


この年、東京のいとこが講談社に入社していて、会って初めて知りお互い驚く。(いとこは後年「少フレンド」の編集長になる)

チャンスをもらいながら自分の力不足から作品掲載は「ぼくら」の増刊号に1度だけ。以後講談社とは縁がなかった。(田中雅紀)




[虫人の蛇足コメント]
私が初めて社会人になった頃の話ですね。大学出の給料が2万円ほどでしたから、賞金は現在だと3、40万円ほどかなあ。その後いとこの方はどうされてるんでしょう。

同じ頃。私の親友で幼なじみの同級生田村浩一氏は集英社に入社。慣れぬカメラを肩にモデルさんを撮影、なんてこと言ってましたが。その後は永井豪氏などやはり漫画家との付き合いに移って行きました。

日本が高度経済成長期に入ったころで、大人達も漫画を読みながらの満員通勤電車の日本風景が世界にも報道されたような…。
丹下健三氏の洗練された現代建築の美意識を、原始エネルギー派の岡本太郎さんの太陽の塔がタケノコよろしく無理矢理突き抜けてニョキッと立ってしまった1970年のEXPOが近く、何かと面白い時代でした。
(中田虫人)



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[田中雅紀.自伝]
小学館ビッグコミック賞


19歳でデビューしたものの、まだまだ絵もストーリーも稚拙。7年間で掲載された作品は4~5本。

自分でも何を描いていいのか分からず、もんもんと悩んでいた頃、弟が読んでいた成人漫画誌に「ビッグコミック賞」作品募集というのを見て応募。大人向けの作品を描くのは初めてだったが佳作に入選。
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この賞はすごく厳しく、この回も大賞の該当作品はなかった。そして賞の選考作家がすごかった。手塚治虫 石森章太郎 白土三平 さいとう・たかお 横山光輝 藤子不二雄、楳図かずお‥‥。当時の実力人気の大先生たち。この先生方に自分の作品を見てもらいコメントをもらったのだ! 後から考えるとびっくりする。

ちなみに佳作の賞金はたしか10万円だったか。この後、成人マンガが合っていたのか「ビッグコミック」「ビッグコミック・オリジナル」等にぽつぽつ作品が掲載されるようになる。(田中雅紀)



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