羽咋(ハクイ)能登語源3
縄文稲作は陸稲
紀元前3世紀ごろから、紀元7世紀ごろまで100万人ほどの渡来人が(日本に)やってきたと前に書きました。
(日本の歴史1・日本史誕生=佐々木高明/集英社)
弥生時代は紀元前3世紀からか、500年をさかのぼるかは学者によりで確定しません。稲作を縄文期にまで延ばすか、弥生土器を稲作と切り離すかが分かれるポイントです。
地図は「縄文後期ー弥生時代」で、水色は海・湖で、薄青色は古い水没域です。(羽咋市教育委員会編集の「寺家遺跡」を資料に作成)
稲作は早くは縄文時代から始まりましたが、陸稲(焼き畑農法)でした。米とヒエや粟などの雑穀類も混ざった農法です。(晩期に佐賀県、福岡県で最古水田遺構が出てます。)
丸木舟で魚介、山で獣を獲る生活ですから稲の栽培はその住居に近い段丘が適していたでしょう。河口も近い寺家町を中心とした所に縄文遺跡(地図の赤い点在)が集中します。海岸に突き出た滝崎の付け根で後に気多大社が建つ付近です。(ここで稲作跡が出たのではなく一般論です。)
潟奥の赤丸の遺跡は四柳貝塚です。縄文・アイヌ人は貝塚に見るような漁労民で、自然や地形を地名にしました。
文字の無い時代ですから、音のみをアイヌ語辞典で調べ、[おうちがた(邑知潟)]と[はくい(羽咋)]の語源をセットで見つけました。
「はき」の語幹は「(はク)」で 、hak-と「k(ク)」の吃音を含みます。「き」は語幹となるhak-の[k]に[-i ]が合成された[k-i]です。「浅い・場所」という意味になります。
こうして次のように、ouchi(おうち)と、hak-u-i(はくい)という語源が導きだされます。
ooやoho,oohoにochiがつづいて「O」がやたら多い。アクセント(高い)の「O」の次が 「O→U」と変化し、さらに地名に定着して、Oが並び立つ(アイヌ語としての)「意味」が不要になったので「おうち」と、発音し易くなったのでしょう。(文末に註※1~3)[邑知(おうち)]潟
■おお-ち=oho-ochi(おほおち)[または、ooho-ochi(おおほおち)、oo-ochi(おおおち)]=深い場所。
「oho,(=ooho、oo)」が[完全動詞]で、深い、深くある、深くなる。
「-ochi」は動詞、形容詞の後ろに付いて、いつでも○○している所、○○するのがつねの所。
[羽咋(はくい)]
■はくい=hak-u-i(はくい)=浅くした場所。
「ha」は汐や水などが「退(ひ)く」、「hak(はッ)」は「浅く(ある)(なる)」。
「-u」は、自動詞に付いて他動詞を作る。「hak-u(はく)」は「浅くする(した、させる)」。
「-i」(イ)は動詞形容詞の後に付き、時・所・物・事を表わす。「○○する所、した所」の意。
なぜ「はき(浅い所)」が「はくい(浅くした場所)になったのでしょうか。雑穀類の焼き畑から水田に稲作技術が飛躍的に改善したことと大変関連がありそうです。新しくやって来た人びと(あるいは新技術で)は、それまで役に立たなかった湿地や浅瀬を改良して水田にしました。
能登島周辺ではつい近代まで浅い湾沖に石を置いて堤防をつくり土を入れて田を広げています。邑知(おうち)潟近辺平野は、現在でも海抜1.2mほどしかない低地域です。
潟の水を退(ひ)き、干拓して"浅くした所"が水田で、そばに住まいをつくる。そんな平地を核に、「羽咋の地(=浅くした地=水田)」が生まれ、縄文期からの生活地が、弥生人の生活の場として新たに地名化していった様子が見えてきます。(文末に註※4)
弥生集落も1カ所、hak-u-i エリアに青い丸(=吉崎・次場遺跡)を印ましたが、平野全体に多くの弥生遺跡が発見されています。
羽咋川は今は市街地の北端を通過し、現在河口はそこのみ。
(写真は冬の羽咋市一ノ宮の海。縄文「一ノ宮佐弥遺跡」があります)
※1.
「凹地が語源」とする説もあります(山内和幸氏:地名研究家・岐阜地理学会会員)。
窅(オウ)が凹の古い字で、和語では「くぼむ、なかくぼ、くぼみ、くぼんでいる(解字漢和辞典)」です。凹地(くぼち)でなく、「凹地(オウチ)」読み漢語音を語源とする説で、当アイヌ語説よりも新しい時代の外来語系の地名という話になります。
また島根県の邑智郡では「郡名は、かつてこの地に拠点を持った豪族『大市氏(おおうちし)』に因むとも、小盆地、あるいは「大きな川内」を意味する『大内(おおうち)』が訛ったものとも、「落ち窪んだ地」という意味の『落ち地』が訛ったものとも言われ、諸説が存在する(by wikipedia)。」とあります。盆地で川はあるが潟湖は無く、またアイヌとは関係ない地域で、名も時代的にやや新しいかも。
※2:
表記が「邑知」の理由は、漢音に意味合わせが行われ、潟を村の地や池(ち)とする意図から「邑知」を採用と思われます。邑=村+知←地・池
文末註(※3)に示したように、漢音では「邑=ユウ、イフ」ですから「オウ⇨邑」は強引です。こだわりがあったかもしれませんが、古くは「ユフチ潟」であったとするならアイヌ語説はなりたたず、和語(漢音)が「ユウ、イフ」→「オウ」変化したことに。ただ、音韻変化は口の開きが小さくなる音へ変わるのが自然と言われるので「←」(逆)です。
※3:
邑:漢字の旁(つくり)のひとつ。都、部、などの「⻏」の部分。人の居住地・地名などを表す文字を作る。(大辞林 第三版)
邑:[人名用漢字]、[音]ユウ(イフ)(漢)、 [訓]むら
1.人の集まり住む区域。地方の町や村。「郷邑・城邑・村邑・都邑」。
2.諸侯などの領地。くに・さと(デジタル大辞泉)
※4:
「水田」を「hak-u-i(はくい)」とする表現はめずらしですが、"能登アイヌ”といわれるここの古代人が環状木柱列(縄文人)を造った特異なアイヌ文化エリアの子孫と関連づければ独自性も納得しえ興味が増します。 中田虫人 ナカタ・ムシンド