羽咋(ハクイ)能登語源1
能登とアイヌ語 ふと地名が気になり出すことがある。「能登」の語源がアイヌ語の「ノット(岬の意昧)」に由来といったたぐいの事への好奇心である。
能登半島の輪島から東方、曽々木海岸に遠くない所に、南志見という地域がある。そこ出身の知人が出来てナジミという読み方を知ったくらいで、どちらかといえぱ素通りしてしまう目立たない所だ。
気になり出したのはその隣が御陣乗太鼓(ごじんじょうだいこ)で有名な名舟(なふね)で、これらの「ナ」には共通した何かがあるかもしれぬと思っだからだ。調べてみたが、大昔のこととて私のナゾ解きは徒労に終わった。
コンクリート製の白い鳥居が海中に立つ白山神社下の辺りを中心に、東は南志見を含み、西は千枚田の広がる白米、深見に至る五キロを名舟海岸という。海には七ツ島が見える。だが、それらは絵本で見る鬼が島のようにギザギザとんがって突き出ている。この時期、海水がまだ温かく、しんきろうのように一部は海面上に浮きあがってさえいる。
さらに沖合にある舳倉島(へぐらじま)は「ネコ島」とも言ったが、アイヌ語の「イコロ(宝島)」がなまったり「ロ」を消失したものともいう。この"宝島”をめぐり、北九州・宗像(むなかた)から移住して来た海女と名舟の人々はトラプルを起こしがちだった。
昔は揚げ浜塩田があり、昭和三十年まで続いたし、七ツ島ではトド猟も盛んだった。藩にそれらを納め、逆に千石の米を藩からもらっていたという土地柄だ。
秋購れの日曜日、釣りに出かけた。南志見の小さな砂浜で投げてみたが、小フグがあがっただけ。釣り人を見かけた名舟漁港の突堤に移動する。夕刻のせいもあって、小アジ、マイワシなどがあがる。女性を含む若者の一団は釣れるごとにはしゃいでいる。鳥居の近くにあった旅館にでも泊まっているのかもしれない。
この鳥居は古いものではなく、舳倉島の奥津(おくつ)姫神杜を地元の白山神杜に合祀(ごうし)した際に造ったものという。奥津姫はいわゆる竜宮の乙姫様だが、「神」のことはアイヌ語の「カムイ」に由来し、霊的力を持つ人のことは「ピト」と言い、人のことはアイヌという、などと推して行くとややこしくなって、結局、神様の世界は解(わか)らないことだらけだと嘆息する。
それでも地名の疑問には、次のようにコジツケてみた。名舟の名は、古語でいう肴(な)で、魚介のこと。舟は文字通りの小舟。
そして、もーう一つの解釈。「なふ」はアイヌ語で「ヌフ=日本語の野(の)」、そして「ね」は縫(ぬ)うという意味の略形「ノ」の変化したもの。小さい野が海岸線を縫って点在するこの辺にピツタリのイメージが出來上がりました。おわらい下さい。(絵・文 中田虫人)
[1989年(平成元年)10月3日・北陸中日新聞夕刊] 掲載。
結論から言うと、文頭にある「能登」で2014年正月現在、私は行き詰まっている。調べてもはっきりしない。
古くは「能等」と書かれてもいるので「と」は「とー」と長音と思う。
この随想を書いたころ以前ではアイヌ語と言われていた(はずだ)が、手持ちのアイヌ語辞典ではnotoは凪とか良い海という意味で「と」にアクセントがあり高い。これは「能登」の語源ではなさそうだ。
not(のっ) not-ke(のっけ) not-u(のとぅ)は岬とか崎の先端を表現し、
not-oro(のとろ) notor(のとる)とは崎の所なので、これらが能登"半島"の語源といわれている語らしい。「の」は高く発音する。(岬はenram(えんらm)とも言う語など他にもある。)
しかし、ここで気がつく事がある。実はアクセントが違うのではないか。
能登や能等と「と」を「とー」長音表記した理由を、後ろに高いアクセントがある(⤴)と解釈すれば「岬」や「崎の所」でなく、「良い海」を表す事に成り、これが語源ではないのか?
私など能登半島の西側に住むものは、東、つまり能登島周辺や七尾の内海の穏やかさや静かさを、これに連想する。特に外海と呼ばれる冬の日本海の、能登の西海・北海は毎日が台風の中のような季節風で船さえも陸に上げざるをえないほど荒れる。
能登とは、古くは半島で珠洲や鳳至と言われたエリアとならび、ここ邑知潟の平野近辺だけのことで(能登郡)、半島全体を指さなかった、として良いのではないか。邑知潟の平野は能登で最も早く稲作文化が始まった地に違いないし、その住民たちがノトと言えば、半島ではなく自分たちの生活範囲を指したとしてさしつかえないと思う。
アイヌ人や縄文人が山海の獲物を追って生活していた時期でなく、弥生人が大陸文化とともに米作りで平地に定住した頃では、先住の民の語「ノトッ」という地形名、または「ノト」という海の状態名が地域名に転用され、アクセントも彼ら新渡来系の人(または西から新移住人)などの発音影響で微変する。「能登」のノが野や乃と表記されず、トも戸や門と書かれなかったのは「のーとー」という、文字表記した彼ら自身の音を漢字表記したからで、ノトは発音も意味も元の姿を失っていく。
こうして、ノトは新しく意味不明のナゾの言葉「能登」となった。現代の人々は「のーとー」とは言わないが、単独で使う時は「能登」のアクセントが高低の無い「のと(→)」で、連語になると「⤴か⤵」と曖昧に変化させて使っているようである。アイヌ語での高低アクセントは重要なので、それは考えられない。
さらに言えば、その西方が「羽咋」であり、おだやかな海のある東側の七尾につづく平野方面のみがもともとの能登だったと限定してもいいのではないか、というのが今の私の推論である。
そして、稲作地の邑知潟の平野は、ゆるやかでは有るが、羽咋と七尾(=狭い範囲の能登)という両端の政治勢力の対抗や吸収、拠点の移動といった出来事が、この辺りの古代史の底流となったと私は思うようになった。
というあんばいで、ここの処の私は確定申告作りと古代史の謎解きで運動不足、目はしょぼしょぼの毎日で、ブログの更新もままならないのであります。
なお、このアーカイブ記事のロゴ復元には角永和夫氏に助けていただきました。その節はありがとうございました。中田虫人 ナカタ・ムシンド