人気ブログランキング | 話題のタグを見る

羽咋(ハクイ)能登語源2

万尾(もお)見て"尾"をつかむ

縄文人が出たぞ!

2014年1月17日付け北陸中日新聞や北日本新聞などのトップ"縄文前期人91人発掘"の記事。人骨のDNA鑑定では、この時期すでに北方系と南方系の人骨が混在している、とある。

そこ富山県の呉羽近辺は、「四隅突出型方墳(よすみとっしゅつがたほうふん)」という出雲(島根県)系の特徴ある”古墳”(正規には古墳時代以前なので「墳丘墓」)がいくつも発見されている地域。縄文海進後は、海が遠くなり、神通川の上流台地になって、時代も下って弥生期になるが、出雲の大国主命(おおくにぬしのみこ)とに関係深かったことを示している。

大国主は「大こく様」で、”米俵の上に打ち出の小槌をもってニッコリ立つ”あの人のこと。一寸法師こと・スクナヒコナのみこと(少彦名命)とつるんであちこちに足跡を残している。各地で戦いを仕掛けたというのでなく、先々で現地人と仲良くなり、求婚するなどして強い影響力を残すという戦略が能登地域でもみえる。

倭国統一を目指す畿内・ヤマト政権が一目置く大きな地方勢力で、ヤマト政権成立時は大きな存在であったものの、後ヤマトに吸収され(=国譲り)、出雲大社や三輪山故事のほかは後世では目立たなくなる。

縄文人の言語

ヤマト政権というのは、九州、鳥取、岡山、大阪など西域の多くの豪族が大和盆地に結集して、日本の政権中心に成って行く途上の大王政権のことで、鉄器文化と経済基盤に水田稲作をなし、覇権的に国家の統一をめざした勢力のこと。背景には当時の極東の国際情勢がからみ、大国主を含めほとんどが外国人(渡来系)だった。

え?と思う方もありそうなので説明がいる。”外国人”というのは「弥生人」のことで、もともと日本列島に住んでいた縄文人やアイヌ人にとっては外国人と言う意味だ。「紀元前3世紀ごろから紀元7世紀ごろまでに数十万人から100万人規模の渡来人がやってきたということがはじめて検証された」。場所によっては短期で先人人口を追い抜いた。(「日本の歴史①日本史誕生=佐々木高明、集英社/[第6章 縄文人から日本人へ]混血集団の形成ーヒトとしての日本人の成立」)

 渡来の人が話す言語と、その時々の現地人のそれとは異っており、例えば3世紀、社会的平等が崩れた頃の「倭人」社会では支配層の人と支配される人では違う言葉を話していた、という可能性を説く学者もある。倭人というのは中国の文献に出てくる日本の人のことで、「魏志倭人伝」の書かれたころであるが、それ以前も以降にも、日本語はアジア大陸の北や南の言葉との複雑な混合があったのは確かで、やがて日本語として独自に固まっていったに違いない、と私的には割り切ることにする。

縄文人の言語はこうであると一言では言えない。しかし、縄文人という古い日本人がその土地で話していた言葉であり、当時は生きていて、死語になったものが今も地名としては残っているはずという前提が、私の語源さがしの原点となっている。

縄文人とアイヌ人は違うのか


前書「日本の歴史①」などでは、もともと同じものが地理気候の関係で稲作に遠く、独自に経過したのがアイヌ文化という。私は、古くは同じ言葉(または近い言葉)を話していた、と断定して”語源探し”に出発する。乱暴と思われる方もあるだろうが、こうでもしないと先に進めない。現時点では言語学者の研究書は研究過程や方向に力点がある仮説ばかりで、結論先送り、各説並列で実用的ではない。

また、福井嶺北から北の越後までは古志(越=こし)と呼び、ヤマトの侵行は緩やかに遅く展開した。ここでは大和言葉の侵略もそのようであったと思える。つまり、私たち北陸人はあちこちの地名に意味不明の縄文語らしき語を見つける機会に恵まれてしまう。北海道ほどでないが、古い地名がけっこう残っていると思える。

「かつて金田一京助氏が、その系統関係をかなり断定的に否定されたが(中略)、縄文語がもし復元できれば、それはアイヌ語の粗型にかなり近い可能性も否定できない」(前書)。これこそが我が思いそのものであるし、現アイヌ語を手がかりにやれる範囲で語源さがしをする理由である。

羽咋、邑知、滝、万尾(ハクイ、オウチ、タキ、モオ)など意味不明の大地で寝起きするのは気持ちが悪い。手っ取り早く納得の結論の上で安眠したい。それが切羽詰まったアマチュア心理というものではないか。羽を犬が食って羽咋(=羽喰)などという、人をくった伝説は、何とか理屈づけて"安心したい"庶民心がみえて、内容はともかく共感する。

「万尾」で迷って「羽咋」へ。

羽咋(ハクイ)能登語源2_d0329286_15225629.jpg語源さがしにハマった私は、古代史に迷い込み、出口を探してお隣富山県高岡まで”書籍探し”に行ったりした。日が暮れての山道帰りは、曲がり角を間違えると大変。なのに同じ間違いを2度もやった。氷見市から山越えの国道415号に入らず手前に入ったらしい。

今回はと目をこらして案内標識を見る。多少余裕が出て、国道筋交差点に「万尾 Moo」へ、とあるのをいくつも見る。「山中に、もお?」こんなん日本語じゃねえだろう?「一体どんな意味?」と引っ掛かりさっそく調べることに…。

[写真は干拓した後の現在の邑知潟(羽咋市)]
羽咋(ハクイ)能登語源2_d0329286_15241588.jpg
で、それが端緒で懸案の「羽咋」語源にたどりつき「邑知潟(おうちがた)」経由で「滝」という本命に至る"大発見"となった。
(※これまで語源不明で難解、とされていたものに出た1解答なので大げさではないはずです。)

長文になるのでここまで。次回は謎解きをやりまする!(中田虫人)

⭐︎

ps.
万尾」はアイヌ語ではなく大和語系で、”多くの道の端口”を意味していると思われます。
「も(万)」には「多い」意味があるかと思われます。古語辞典では「を」は「峰」です。三尾、七尾、八尾、万尾などの尾は峰でしょうが、かつては峰が通行の道そのものであって「路」と解した表現でもありましょう。「尾」は岐路になってる地形についています。

出雲の「も」もそこから来ている可能性もありますが、語源不明で「厳藻(イツモ)」説が有力です。
古語辞典では「も」に「多、最」の意味はありませんが、反ヤマト圏(出雲や越など)で使われた方言の可能性はあります。出雲は国引き神話が示すような外に打(討?)って出る大國を形容する「『出づ・最(も)』の国」が語源かもしれません。大和に気をつかって”雲隠れ”させたい名だと、後の改名時に考えたかもしれないですね(笑。
(※最は、冒し取る、無理に取る、強いて取る意味であるが、冣(シュ)の字と誤用して「もっとも」という意味にのみ用いられている。第一番に多い意味。=解字漢和辞典)


スペース滝
925-0005 石県羽咋市滝町レ99-88 TEL; 0767-23-4401

by spaceTAKI | 2014-01-22 15:41 | ☆歴史/能登.羽咋語源 | Comments(0)