イスルギ彦ふたたび

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目 次


■神戦(かみいくさ)のキャラたち

 どんな話なのかおさらいする。
富山市の神通川上流・船倉山の一帯を本拠とした姉倉姫は、能登石動山の伊須流伎彦と夫婦だったが、夫が近くの杣山(そまやま)の能登姫と通じたため三角関係で能登と越中が戦乱に。騒動をきいた出雲の国のオオナムチが鎮め、姉倉姫は小竹野(呉羽)に謹慎、機織り。あとの二人は海浜にさらされた。(「喚起泉達録」)
この神話が意味するのは、つぎのようだ。

2世紀は争乱の時代。能登の豪族・能登姫らが国境のイスルギ彦を強引に誘い込み勢力拡張をはかったが、オオナムチに越中が統治された。([喚起泉達録]に見る越中古代史=棚元理・桂書房)
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■姉倉姫とは?

  ここからは”語源を求めて”話を進めたい。姉倉姫から。
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写真は舟倉の平野からの寺家公園(山)にある「姉倉姫神社」アプローチ。

地図のピンク域には二つの姉倉比売(あねくらひめ)神社が現存する。南側は神通川が山に入り込む手前の台地平野の舟倉地区の「寺家」で、宮と一体となった紅葉の美しい寺家公園をブログで紹介している。
北側の呉羽の神社も、縄文前期人骨91体発掘の小竹貝塚遺跡の近くにある古神社としてブログで紹介した。

 ▼地図: ▼能登姫に戻る▼イスルギ彦氷見説に戻る▼イスルギ彦小矢部説に戻る
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 双方に共通するのは、そう遠くない所に縄文の集落遺跡があることで、弥生時代への移行は縄文系人が行ったろうと想像させる。弥生時代に比べると縄文時代は16〜27倍ほどとの長い間だから、それなりの変化や発展があり、原始生活然としていたのではない。
たとえば世界に先がけて、最古の焼き物を作ったのは縄文人で、すでに作っていた篭の目を土器にもデザインしたのが縄文土器の”縄文”の始まりと言い、三内丸山遺跡(青森県)に見るように漆の利用もしていた。

弥生は水田稲作をもたらして劇的な生活変化が起きたが、石川県以東の北陸信越地方は西域よりは比較的緩やかな変化と想像される。
JR小松駅裏,八日市地方遺跡(BC3頃)は金属器を暗示。多量埋蔵が意外な所にあるともされるが、今の処、弥生期の銅剣、銅鉾、銅鐸の発掘がまずない。鉄や青銅の金属を伴ったであろう本格的な兵力の出現は、2、3世紀ごろかと推察される出雲・オオナムチによるよる”越(こし)の八口の平定”(出雲風土記)が最初で、ここでは抵抗に遇ったと伝える。

『古事記』に、「高志(こし)の八岐の大蛇(やまたのおろち)」をスサノオの命が退治する神話がある。スサノオは出雲の神で、八岐の大蛇に「高志(こし)」を付加したのは、福井県の九頭竜川を念頭においたためという解釈のほか、高志(こし=北陸)が怖い所、恐ろしい所というイメージがあったため、とする説がある。オオナムチが越(こし)で戦ったことを表わしていると言える。

d0329286_13544026.jpgところで、出雲(島根)政権が越に手を伸ばしたのは、畿内・ヤマト政権と敵対していたからに他ならない。出雲はヤマトとの大戦争を想定して国力を高めるため、交易していた友好地域を支配下に置く必要があった。ヒスイの産地新潟県の糸魚川、そして富山県の呉東では抵抗が少なく戦わずして権力移譲がなされたようだ。糸魚川ではヌナカワ姫との間にのちに諏訪の神となるタケミナカタの命という息子までつくっている。
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姉倉姫の語源

呉東は姉倉姫が統治していたかと思われるが、これは武威によるものというより、神威だったと推測出来るが、名前からその意味を解いてみたい。
[アイヌ語]
a-ne-kru(ア・ネ・クㇽ)=人のような魔、神(人である神)
 
 a-(またはan-)[ア、アン];われ(ら)の、われ(ら)が[主格]。一般称では「人」の意味。
 ne[ネ、ネ-];(( 不完動詞))「(それ)である」「になる」「のようである」。
 kru, kri ;「影」。
 -kru[-クㇽ] ;古くは「魔」「神」の意味だったらしいが、現アイヌ語では「人」。
※a-onne-kur(ア・ンネ・クㇽ)「=われらの老いたる(神)人」も導かれるが音韻変化上やや苦しい。
[韓語]
 언니 (en-ni)[アンニ] ;(( 名詞))弟が兄を、妹が姉を呼ぶ愛称。
 쿨 (kur)[-クㇽ] ;(( 名詞))洞窟、トンネル。
※姉をアンニと音ずるのは日本語と同根だろうが「姉・洞窟」では、巫女名としてはアイヌ語説に及ばない。
[和語]
神社は舟倉地区にあるから、文字通りの「姉倉」という収穫物の貯蔵倉があったかも知れない。「寺家(官が=役所)」地名から、出雲に統治されてからも同じ機構が維持された可能性もある。
以上「姉倉姫」の輪郭は描けたと思う。
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巫女(みこ)の性態

彼女は、より古い時代から神と人の橋渡しをした”氏神的立場”の女性の一人で、神意を述べる統率者としての役目があったと語源が示す。それを支えた男性はいたろうが、男首長(たぶん身内)との立場は微妙だったかと思う。

民俗学者・折口信夫が沖縄の民俗研究で指摘したように、古代では神と人間とを、特に女性の祭祀(さいし)者では、明確な区別をしなかった。統治者や王は神そのものとして畏(おそ)れられ、それが統治能力だったと言える。またそこでは巫女は乙女(後には一夫まで)という条件があることを折にふれ記述している。
「(神人(かみんちゅ)は)琉球神道における神人資格の第一条件であるところの二夫にまみえていない女ということが、根本になっている」(『古代研究1民俗学編1』琉球の宗教・八、いろいろな巫女)

d0329286_13571910.jpg当地でも縄文期からの、女性の神秘能力(神がかり)に特別視があったと見てよく、姉倉姫もそのような立場で巫女組織をまとめていた女長と思われる。だから、喚起泉達録の言う個人的な痴情の三角関係もつれを神戦の原因とするのはやや不自然で、領土的トラブルなど他の因を考えるべきだろう。

同書の『最古日本の女性生活の根底・三「女軍(めいくさ)」』項では、全軍の将(巫女で君主)として号令する女性のほか、一将軍の妻であり巫女として戦場に連れ立った例が幾つも列挙されている。有名な「卑弥呼」女王を持ち出さずとも、巫女自身が戦闘の指導をし一族の運命をもにぎったのは、彼女自身が神として認められていたからだろう。越中・能登の古代女神の「神戦」もこの例といえる。

姉倉姫と能登姫の戦は、こうして古代戦争の史実像の伝説として後世に伝わり、前田氏富山藩の[喚起泉達録]に記録された。

ではイスルギ彦の実像はどうだったかが気がかりだが、先に能登姫像からせまってみたい。
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■能登姫の正体は?

能登姫の勢力域を七尾から中能登近辺までを一応の候補地とした(薄だいだい色の▲地図上のエリア)。

「能登」の語源を[ノーとー(⤴)]=「穏やかな海」というアイヌ語を語源とした域で、また後に能登国に(養老2年(718)羽咋、鳳至、珠洲と並び)能登郡が成立という以外の根拠はないが、前提として能登姫の「能登」を半島ではなく、この能登郡域(七尾エリア)に限定する。
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石動山の読みは「せきどうざん」で、中世をピークとして山全体が山岳信仰(修験道)の拠点として栄えた。神仏混淆で山頂寺院群に「延喜式内で能登二の宮とされた伊須流岐比古神社(埋蔵文化センター「石川の遺跡散歩」)があった。七尾からの入山口の一つである二宮(にのみや)には「天日陰比咩神社(あめのひかげひめじんじゃ)」がある。そこの境内にある「鎮座石」の説明では次のように、山名が「イスルギ」に近い音であったことが記されている。
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鎮座石

石動山が泰澄法師によって開山される以前は枝摺樹之山と里人に呼ばれ、天狗や狼、蝮(まむし)、狐等の棲む山として恐れられていた。(以下省略)
「枝摺樹之山」をどう読むか。「えすりぎのやま」または、えするぎ…、しするぎ…、などが自然で意味も通る。大樹より雑木の多い歩きにくい山の意味にとれる。
(敗戦したイスルギ彦がこの山に逃げたので、後にイスルギと混同され里人から恐れられる山となった可能性もある。)

喚起泉達録では、能登姫は杣山(そまやま)に居た姫とある。杣木(そまき)は木こり*1の事なので、この神社に遠くない井田の環状列柱遺跡の巨木文化を思うと、縄文以来の山仕事を主導する豪族がいて、姫の一族だったと関連させてもいい。神社由来には祭神「屋舩久久能智命(やふねくくのちのみこと)」は「草木や建造物の守護神」だと記してあり、これは正に木こりの守護神という意味である。
*1[杣(そま)とは、古代・中世の日本で国家・権門が所有した山林。杣において働いている人。]

これら神の名付けなどに漢字音を充てるさい、意味と、いわば当て字で漢音を重ねる工夫があって、苦心と知恵が見える。「屋」は家「舩」は舟、久久(くく)は「くく・す(=くくる、縛る)」という動詞の語幹で、「能智命」は文字通り知識能力ある貴人を表現している。諏訪の御柱祭(おんばしらまつり)に見るようなイベントや、建設作業に巫女として加った女性がいて、能登姫も似た立場で祈願を行っていたのは間違いないだろう。

d0329286_1618328.jpgこの祭神は、直接には大国主やイスルギ彦に関係しない神だが、相殿の祭神は大己貴命(オオナムチのみこと)とあり、二神を別けて祀ったのは意味があるとみるべきだろう。つまり、一つは「草木や建造物の守護神」で能登姫に関連し、一方はそれを成敗したであろう出雲神・大己貴命を祀る。天日陰比咩神社の建立は第三者的立場の崇神天皇がらみであり、雨乞い祈願の宮と、性格を変えている。

神社の記述は「神戦(かみいくさ)」の能登姫、または同じ性格の別の巫女(=天日陰姫)が"二の宮"を継承していったとしても、神戦と矛盾せず筋は通る。つまり能登姫と天日陰比咩とは同族だとも言えるだろう。出雲の目的は敵地の懐柔であり、せん滅ではない。浜にさらされた二人は、当地の指導的"神"が、能登姫以外の別者に代わった事を告げるための見せしめでもあったと言えよう。

私は杣木、杣山地名を地図に探したが、石川、富山には見出せなかった(福井県には杣山がある)。で、能登エリア南の石動山と、つづく碁石が峰一帯を杣山と仮定すれば、次のイスルギ彦のエリア特定の一つの仮説にはつなげ得ると思う。
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■イスルギは韓語だった…

イスルギ彦(伊須流岐彦)を探りたいが、手掛かりはとぼしい。

(タイトルバック写真とこの写真は石動山の伊須流岐彦神社。)d0329286_1472026.jpgそこで、先に名前の解読をし、その後これを手掛かりとして”からめとって”いきたい。

勘の良い方ならお気づきかもしれないが、「イスルギ」という音には外国語の響きがある。JR北陸本線には石動(いするぎ)駅があるが、南加賀には動橋(いぶりはし)駅があり、「動」という漢字を「いする」「いぶり(←いぶる)」と読ませているのだが、これは揺するが訛った方言である。さりとて「揺する岐・彦」ではとても指導的地位の名とは言えない。またアイヌ語も探してみたが、うまい解釈は見出せなかった。(※「ゆする」=古語では騒ぐ意味)

つまり、名前の上では彼は韓人だった。次がその韓語・和訳である。
이:술기 (i-seuru-gi)[イースルギ](+彦)=ここの知恵(+彦)、利益知恵(+彦)→『この知恵・男(彦=日子=美士、立派な士)』

 이 [イ](冠詞) 目的の事物をさす「この」、時間や距離の近い「この処」
 이: [イー](名詞) 「利」「利益」「有益」
 술기 [seur-gi, swl-gi] (名詞) 理に明るく是非善悪を判断する能力「知恵」

 
※ 『이술(iseuru)[イスゥル] (名詞)=「露」「はかない命」「涙」』という語は彼の最期にふさわしいが、기(gi)[ギ、キ](名詞)が「気、記、紀」と続くとうまく意味が繋がらないし、「旗」では「=はかない命の旗・彦」で、これらでは戦えないから割愛、ボツとした。
本人が名乗ったのか、周りが呼んだ名かは分からないが、結果は示唆に富むもので、人物像のカギに思える。
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鉄流通の攻防

ここで当時の先進地域がどうなっていたのか簡単に見てみたい。
岩橋孝典氏(島根県教育庁古代文化センター)の見解はつぎのようである。


 1. 弥生時代前期に、島根県沿岸には日本海から、山間部には瀬戸内海から弥生文化が入って来た。
 2. 中期末に、サヌカイト(四国産の石刃物)などの石器流通であったものを、瀬戸内海を通じて大陸から鉄の流通量が増え、近畿地方と山陰で鉄の依存が高まる。
 3. AD1C前半、大陸の中国で「新」「晋」王朝になり安定した流通で弥生時代後期に入る。
 4. 後期中葉ごろ、流通の要位置にあった北九州勢力が瀬戸内海の入口を遮断し、鉄の流通を止めた
 5. 近畿以東は、代えて日本海路を利用したので山陰の弥生首長層(出雲、丹後など)が力を付けた。


これが畿内ヤマトを山陰や吉備に接近させ、のちには吸収する圧力や動きにつながったということだろう。

吉備はヤマトと戦って負け(岡山と出雲は鉄で通じていた)、丹後は早くにヤマト首長の連合に加わった。出雲はヤマトにとっても侮れぬほどの"大国(おおくに)"であったから態度を決めず時間かせぎをした。オオナムチが対ヤマト戦に備えて越(=北陸)に勢力を伸ばし、イスルギ彦と能登姫を攻略したのはこの時期にあたるだろう。
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イスルギ彦拠点 氷見説

山陰は北九州や韓半島との交易で富みと力を得たが、米作りに適した大きな平野がない。越の、特に富山の利水の良い大きな平野はさぞ魅力があったに違いない。(結局、出雲は他域に最も遅れてヤマトに折れることにはなるのだが…。)私は「イスルギ彦」の語源を韓語の『この知恵ある・男(彦=立派な士)』とした。彼はたぶん情報にも通じ、時代状況にも明るくて、出雲より一歩先んじて富山に目を付け、弥生化を進めたのかもしれない。だからこそ、より古い姉倉一族と対立し、オオナムチにつぶされたのだと言えないか。

能登姫を頂く豪族とイスルギ彦は、何かの利害一致はあったろうが具体的には分からない*2。しかし、むしろ伝承とは反対に、こちらが夫婦(または身内)だったかも知れない。なぜなら、氷見域をイスルギ彦エリアと見た場合は呉東の姉倉域とは地理的に遠く、夫婦と見るには間を埋めるストリーがいるが、能登の山と氷見裏山は同じ里山の裏表なので経済的・実利的に結びついていておかしくはないからだ。(▲地図へ)
(*2 物々交換経済で、イスルギ彦と姉倉姫は似たもの同士なので組む意味がないが、能登姫は性格が異なり組めば利がある。同様に、出雲は鉄の交易品に米やヒスイ「玉」が要ったので北陸を狙ったのか。)

写真:氷見市雨晴海岸から立山連邦を臨む。
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この点に関しては、富山大学助教授・髙橋浩二氏(日本海学講座で)の古墳時代の話中に、むかしは氷見と能登を結ぶ「之乎路」があったことに触れている。氷見・伏木地区は後に大型の古墳を残していく土地柄で、弥生期の呉羽地区とは勢力を別けた地と思われる。また能登の山から氷見に下る川筋山中にいくつもの縄文遺跡があって分布のばらけていたものが、弥生期には平野中心部(海側)に移動集中する。こうしたことから、弥生期の富山に2つのコアがあり、(対立したかは別にして)一つが姉倉姫の呉羽で、もう一つは氷見だと言える。この二拠点を抑えることがオオナムチの使命であり、イスルギ彦は氷見の中心域に居た豪族(の一人)だった、と言えるのではないか。

イスルギ彦拠点 小矢部説

 2つ目のイスルギ彦拠点の仮説は、小矢部市・JR石動(いするぎ)駅近辺になる。ここの近くの石川県へ抜ける山裾に縄文・桜町遺跡があり、ドングリをあく抜き食料にした生活跡などが出た。ここではそれまでの常識を覆す高度な木組み木材加工痕が発見されている。正に「杣木」の技術者を見る思いがする。より南には弥生の遺跡もあり、蛇行する小矢部川にそって稲作が行われたろうが、その遺跡は主に古墳時代に下ってからのものとなる。

d0329286_14103057.jpgただ▲地図に示した様に北陸新幹線下から弥生時代の玉造・竪穴式住居が焼けて出ているので、ここの村は戦乱に遭った可能性がある。それが神戦(かみいくさ)時か、後の阿彦の乱かは遺跡調査中でもあり不明。(※近年の竪穴式住居の見解では、茅葺き屋根の上に土を被せていたとされていて、アイヌ習俗同様に死者送りで家を内部から焼いた物があるとされ、各地の遺跡復元住居屋根には疑問が出ている)
 下老子しもおいご笹川遺跡
縄文晩期竪穴住居,弥生時代後期の周堤及び周溝をもつ竪穴住居跡多数と弥生時代後期の焼失住居。弥生時代・古墳時代の水田跡。

ここをイスルギ彦に関連づければ、稲作と玉の交易をも行った”知恵ある”別のリーダー像が描け、小矢部川から能登(七尾)の海の豪族と交易もし、そこの姫巫女と通じてオオナムチに抵抗した、という図式も描ける。

また、ここのエリアをイスルギ彦に代って出雲族が継承していったとするなら、奈良時代にかけて小矢部→砺波と出雲人を指導者として開拓を広げて行った傍証として、ここにも「寺家」地名が残ったことを指摘してよいと思う。(ちなみに石川県羽咋市の寺家の工人たちの遺跡は5世紀からになる。)
▶[(寺家はむずかしい-4)砺波平野の寺家]へ
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写真:福岡町歴史民俗資料館前から見下ろした砺波平野。
 いずれにしても裏付けのできる根拠は希薄なので、イスルギ彦は姉倉姫ほどのリアリテを得られない。滅ぼされた側であれば当然のことであるけれども…。しかし、こうした"語源探し"から、オオナムチや出雲と北陸の動向や関係がおぼろげながらも見えて来るので、無意味でないと私は思う。
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 以上でこの項は終了。「寺家さまよい歩記」はもう一回=[(6)信州松本]をやれそうに思っているが、いつになりますか…。読んで下さって、ありがとうございました。 中田虫人 ナカタ・ムシンド
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by spaceTAKI | 2015-05-03 14:44 | ☆歴史/能登.羽咋語源 | Comments(0)