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水が弦にバシャバシャ落下

2017夏の音楽会終了・雑感

スペース滝'17夏の音楽会『鶴見彩ピアノ独奏会』・7/23(土)2:00pm開演。
¥1000.-(高校生以下無料)、盛況のうちに終了しました。

水が弦にバシャバシャ落下


7月23日リサイタル当日。
リハでのこと。ピアノの高音弦に上空から水がしたたり落ちるハプニング。一番驚いたのはピアニストの鶴見さんだと思う。私は同じ過ちをやってるので「またやっちまったか〜!」の心境。ピアニストに限らずアーティストは一種の極限情況で場に臨むこともあり、こんな事では演奏中止されたところで文句を言えぬ立場かもしれない。鶴見さんはピアノの位置換えを提案されたり、移動に手を貸してくださろうとしたりで、ほんとに恐縮してしまった。

後でスタッフの筧さんから聞いたけれど、プログラム演目のショパン・バラード4番を変更したのは、鶴見さんがショパンの3番が「水の精」とのタイトルだったからという。水を意識しての変更だった。
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水の動きを鍵盤で伝える



”水影”が揺らぐと鍵盤の白がちらちらして弾き手にも音で水を制御している感覚が目から伝わる。水という自然の一部とピアノの音が指先で繋がった感覚は、アナログなればこそだと思う。コンピュータプログラムでも光のパターンをデータ化すればより正確に鍵盤上の意に添った動きを作り出せるかとは思う。

反して本物の水は思わぬ動きや偶然の連続で、鍵盤とはタイムラグもできる。本来ならイライラするはずの処がむしろ心地よいといっていいし、このずれのある一体感はどこか癒されるものがある。ピアニストのプロの音の切れや強弱の大きさに現在のデバイスではついていけず、跳ね上がった水が落下したのは私の設計ミスなのだけれど、これもアナログなればこその”自然”がそこにあるのだとも言える。

「見る音、聞く形」という禅語


『ミルオト キクカタチ』という催事で、鶴見さんたちが陶彫の立ち並ぶ音楽堂ホールで演奏するのを二度見ている。
「見る音 聞く形」は中世の禅僧の和歌から出た言葉だと鈴木大拙は講演で披露している。これは、いわゆる一元論を言っているのだと理解できるが、人は自然の一部だという体験的な感覚なのだと思う。”水影”は文字通りの「見る音」なのだけれど、原初の命が大海で生まれ、母体羊水の中で育ち、身体の60%が水で出来ている人間にとっては、肉体もまた自然素材の造物であることに思い至っていいのだと思う。

鶴見さんがお持ちのピアノは500kgほどで、当館のは200kg以下だろうという話が出た。鶴見家のは低音部が1オクターブ分多いベーゼンドルファーか。リストの「ダンテを読んで」が終曲だったのだけれど、当館のもの程度では同じ音質音量は望めないはずのところ、それでもプロの迫力はすごいものだった。これは現在のアンプやメカ性能の構造バランスではカバーしきれない音量幅だと知ったので、いづれ総取っ替えするつもり。

装置は表現か?


スペース滝はアトリエ展示場に過ぎないから、今の処ピアノを換える気はないけれど、せめてプロの演奏に耐える「水影」を作るべきは当然のことだし、中古品に振り回された現状の実験結果を踏んでの新設は安易なはず。むしろそこから先がやや気になっている。私が「作品」と呼ぶのは「デバイス」つまり装置。だが、それはコンセプトの具現ではあれ、演奏家の表現がその上に乗ってはじめて具体的に意図する”美域”にいたれるのだから、これを近代芸術の「表現」と呼ぶにはやや疑問がないわけではない。

リサイタル「彩が織りなす夏の影音」


音楽会にメインタイトルが欲しいと言ったのは筧さんで「彩が織りなす夏の影音」は彼の意図を察して私が提案した。
これが方向づけキーワードになり、曲変更にみられたようにピアニストさえも動かしたと思う。で、鶴見さんに限らず音楽家らが快く協力してくれるのは、やってること(水影)が面白いからに違いない。ああしたら、こうしたら、という積極的な感想や提案は、みなさんが「水影」の制作サイドに立って頭で参加していることを意味している。私が否定や反論しがちなのは全面拒否ではなく、むしろこの参加が当コンセプトの有用性を示していて、手応えを感じてうれしく思うゆえに対等に自分の立場を述べているにすぎない。

作曲者→表現者


鶴見さんの舞台上の紹介コメントに「(水影の)美しさを見てほしい…」とあったのは正直な感想と私は受け取っている。水に思いを込めたとの話もあった。彼女はコラボさせて頂いた「夢」(ドビッシー)の奥に、水のイメージを含ませようとしたのだと私は思う。芸大で講師をする程の技量の奥に込めるものはなになのか…。聴く者にそれは伝わるものなのか。

ピアノは弦楽器だがギターやバイオリン類のように音色が変えられない。代わりにオーケストラ並みの音域がある。作曲家たちはそれをフルに使って古典曲が構成されているのが分かるのだけれど、演奏家たちはその奥にあるものさえ表現しようとする。
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表現の奥に込めるもの


ラフマニノフの演奏最後に舞台上で気を失い狂気の人なっても演奏活動をつづけた実在のピアニスト、デビッド・ヘルプゴッドを描いたビデオ「シャイン」。クラシック音楽演奏が目指そうとした一つの頂点がそこにあると言えないだろうか。デビッドやゴッホ、草間弥生など、狂気に近い所で生み出されるものの凄みと個性にはある種の不幸な履歴が潜む。

高い器量と技術があれば、次に要求されるのは具体的な「表現」なのだろうけど、心の芯にあるものは各々が違う。ならば終局、古典を演奏するというのは演奏家が作曲者という他人になることを要求されているのだろうか。そうではない、視聴者は演奏家というフィルターを透かして作曲者の心を聴くのだから演奏者の解釈次第。けっこう複雑なこととなる。その解釈が深みを生み出し面白さともなるのだろうが、当然評価も分かれる因となる。

表現者→装置、という”表現”


「水影」はその複雑さの上に、さらに”水のフィルター”をかけることになる。演奏家が水に関連した曲や「夢」の様な静かな曲をコラボレーションに選ぶのは曲想にあっているからだけれども、本来なら「水影」は蛇足物のはずである。ただ、コラボが成功した場合、音楽家たちの意図を超えた新鮮な空間を経験するのも事実だと思う。

まだ発展途上の「水影」


とはいえ私のデバイスはやはり私の趣向が作り出したメカニズムだから、大きな意味では表現行為に違いない。コラボが失敗か成功か、思い描くものにどれほど近づいたのか、は私という個性がデバイスという表現手段をどれほど向上させ使いこなしたかにかかる。

私は『見えないものをどう見せるか』をテーマに造形作品を作ってきた。水影もその延長上にある。これはやはり近現代の”アート表現”としていいはず。だが仕掛けは”水落下事件”のように発展途上にある。これは明らかな失敗だけれど、それこそが制作をつづける面白さでもある。
そんな訳で、鶴見さんからのご厚意で完成度の高い音楽世界とコラボさせていただけるのは感謝のほかない。

50人近い観客に感謝

「彩の会」会員参加者20名と少なかったのですが、総有料入場者数は倍以上、子供たちや主催者関係者を加えれば、立ち見に心配をする程の盛況でした。遠くは小松市や富山県から来られた家族もありました。主催者に代わって厚く御礼申し上げます。ありがとうございました。
中田むしんど

スペース滝
925-0005 石県羽咋市滝町レ99-88 TEL&FAX 0767-23-4401