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人色々々-43/マンガ史2

[田中雅紀氏の連載マンガ]
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マンガの歴史のこと 2


7月1日
前回に続き、マンガの歴史について勉強し、私が興味深かったことをご紹介します。いよいよ昭和ですが、昭和は大戦前と終戦後に分けた方がよいようです。

 昭和時代
大戦前。マンガの歴史を考えるとき、田河水泡、この人抜きには語れません。元は落語の脚本を書いていたが、美術の学校を出ていたことから編集者の薦めで漫画を描き始める。昭和6年(1931)から昭和16年(1941)に連載した「のらくろ」が大ヒット。黒い犬を擬人化した主人公のらくろは日本の漫画で初めて人気者になったキャラクターだ。まだ幼かった手塚治虫がよく模写をして漫画にはまっていったとか。( ちなみに私は、馬場のぼる、の作品に登場する黒ネコを模写したことから漫画の道に )。
 田河水泡には何人もの弟子がいた。「サザエさん」の長谷川町子、「あんみつ姫」の倉金庄助ほか、杉浦茂滝田ゆう山根赤鬼山根青鬼など多数。私もこの中の何人かの作品を読んだ覚えが。師匠の田河水泡は落語の脚本家だったせいもあって、滑稽(笑)にこだわった人。弟子たちもそれを引き継いでいる。弟子ではないが、この系統の流れは後の赤塚不二夫に続いているようだ。

 滑稽漫画に対して、ストーリーマンガ家の代表はもちろんこの人。後にマンガの神様と言われる手塚治虫。手塚治虫の処女作は新聞の地元版に載ったもだが、世の中に最初に発表したのは単行本の書き下ろしで「新宝島」(1947)。終戦から2年目、手塚治虫19歳のとき。「新宝島」は超大ヒット。40万部から80万部が売れたのではないかと言われた。私が意外だったのは、この単行本は正規の出版社から出されたものではなく、いわゆる「赤本」と言われる出版だった。「赤本」て何 ? ネットで調べてみた。わかつたのは「赤本」はマンガの歴史に、とても重要な役割を果たしたということだった。「赤本」について少し説明します。読むのが面倒でしょうが我慢のほどを。

 赤本・江戸中期に流行した子供向け絵草紙。
表紙が赤いところから、そう呼ばれた。お伽話が多かった。明治期からは少年向け講談本落語本となり、表紙に赤系の色が多用されたので、やはり赤本の俗称で呼ばれ、内容は低俗で粗雑だったらしい。
 赤本は東京や大阪の下町など、版元と卸問屋を兼ねた零細業者が扱い、普通の書籍の流通ルートではない駄菓子屋や露店などで売られた。
 1932年頃から描き下ろしの漫画本が増え、戦後、手塚治虫の「新宝島」が大ヒットしたことから全国的な赤本漫画のブームになる。ブームは短期間で終わり、1冊が100円を超えるようになると赤本漫画はだんだん衰退する。そして同時期に盛んになってきた貸本屋向けの漫画本へと移っていく。そして貸本漫画は「貸本劇画」を生むことに。

 私が10代の頃まだ近所に貸本屋があった。貸本漫画もたまに読んだが、それほど面白い作品に出会えなかった。小説が好きで、そちらの方を多く借りていた。店番のおじいさんは今はとうの昔に人生を卒業されているだはずだけど、思い出すと懐かしい。 この続きは、また次回に!!

 田中雅紀      



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by spaceTAKI | 2019-07-01 00:10 |  人色々々(花丸ゆう) | Comments(0)