とんとむかし7-"火遊び"の夜に燃えたはなし

母が金丸の実家へ帰るときは、晴れ着の着物に羽織を着た。ぼくは母に手を引かれて歩いた。
ぼくたちが住む集落は駅と駅との中間にあったので、金沢へ行くときは宝達駅で、能登へ行くときは敷波駅で列車に乗った。敷波駅へ行く途中、母は近道をするために踏切から線路内に入り線路脇を次の踏切まで歩いた。当時の列車はまだ蒸気機関車だったが、幸いにというか一度も出会ったことはなかった。
敷波駅から国鉄(当時)七尾線で4つ目の駅が金丸駅。駅から20分ほど歩き長曽川大橋を渡ってすぐ右折し、川沿いの土手を少し歩き、左に坂を下りるとそこが母の実家がある出村(今は出町)だった。

ぼくたちは母の母、祖母を「出村のおばあちゃん」と呼んでいた。出村の祖父はぼくの記憶には全くなくて、早くに亡くなっていた。
母には2人の弟がいた。ぼくは幼いとき学生服の叔父さんに遊んでもらった覚えがあるが、どちらの叔父さんだったのか…。長男の叔父さんは不運な人で、和倉温泉の宿に友達と泊まっていたとき、2階の窓の手すりが折れて下まで落下、それが元で亡くなった。今ならありえないが治療費や慰謝料を1円ももらわなかったという
。
長男の叔父さんの葬式はぼくも覚えている。叔父さんの棺は白木造りの輿に乗せられ、人々に担がれて長曽川の土手下にあったサンマイ(火葬場)まで運ばれた。ぼくも付いて行った。棺は輿とともに焼かれた。
ぼくは出村の家でも近所の子供たちと友達になった。夏には長曽川の水が枯れて白い石の河原になったが、ところどころ細い流れがあって、みんなでゴリや小魚を獲って遊んだ。今は中曽川も護岸工事がされ、そういう遊び場はなくなっていると思う。
ある日、ぼくは1人で遠出をしてみた。細い川に小さな木舟が繋いであるのを見て、川沿いに下って行くと邑知潟に行き当たった。その時ぼくはまだ邑知潟というものを知らなかった。あまりに広い池(!?)に驚いた。その日は曇り日で空も水面(みなも)も灰色で、1番遠いところは水平線が見えた。ぼくはその広さに恐怖さへ感じた。長曽川がこの邑知潟に流れていることをぼくは後で知った。
この年、出村の家はおばあちゃん1人きりだった。弟の叔父さんは金沢の師範学校に行っていた。秋のはじめだった。稲刈りも終わり、田んぼでは藁クズや籾殻を焼いていた。
ほとんど焼き終わり大人が帰ったあと、子供たちが残り火で遊び始めた。4~5人の中にぼくもいた。日が暮れはじめ、空は夕焼けが残っていたが薄闇が降りてきていた。薄暗い中で火の赤さは刺激的だ。子供たちは興奮していた。
田んぼの側に稲架(はさ)木が積んであった。稲を干し終えた稲架木は丸太に戻して来年のために積んであった。直に地面に置くと木が腐るので台をして置いてある。それで丸太と地面の間にいい感じの空間ができ、子供たちにはカマドに見えたのだ。火が付いた藁クズや枯れ草などをカマドへくべて火を付けようとした。だが火は簡単には付かなかった。周りはますます暗さをまし、子供たちも家へ帰る時間になった。
真夜中になってカマドの残り火から火が出て稲架木を全部焼いてしまった。
稲架木の弁償問題になり、火遊びした子供たちの親が責任をとった。ぼくについては他所から来た子で周りの子につられてやったということで許してもらったらしい。その代わり、出村のおばあちゃんは被害者に平謝りしたらしい。ぼくがこれらの話を聞いたのはだいぶん日がたってからだった。

