縄文は、”関ヶ原”が天下をわけた
瀬戸内海が干しあがったら、きっと縄文遺跡が見つかる、と考えた人がいます。本州の西半分では遺跡の出が悪いのです。東との比率は2:8だそう。
卑弥呼だの機内ヤマト政権だのと華々しい舞台になる弥生・古墳時代のこの地ですが、縄文期には極端にさみしいのです。遺跡が海の底だから見つかってないだけと考える人がいてもヘンではないかもしれません。
実はこの時期、海面は上昇し、遺跡は山裾の水辺近くに出るので海の底にはありません。原因は縄文人の”口過ぎ方”でした。彼らは「落葉広葉樹林帯」という東側の植生域で、栄養価の高いナッツ類と海や川の恩恵も受けながら、現代人よりグルメで栄養豊かな安定した暮らしをしていたんです。ビタミンC以外の栄養素は、すべて現代人の摂取量を上回っていた、との研究結果もあるほどです。

コロナ禍で人間の活動が停止気味なので大気が澄んで保温効果が薄れ、心配な地球温暖化がにぶったかのようでもあります。しかし近年の温暖化は、人のせいではなく規模の大きい自然スパンの長い寒暖のリズムのせいだ、という学者もいます。
地球の回転軸のブレが原因で起きる寒暖の歴史的な繰り返しがあったことを、掘削した過去のボーリング・サンプル層が示しており、その温暖期が始まっているとの見方です。
しかし、過去の気象はちょっとした切っ掛けで、大きなうねりに突入してる例もありますから、用心にこしたことはないと私は思います。
温暖化というものは南方から始まりますから、種子島と鹿児島の西に縄文文化が開花します。やがて少しずつ土器スタイルを異にしながら北上し、青森県の三内丸山で”縄文の都”が定着しますが、先立っては能登の縄文真脇遺跡、福井の鳥浜貝塚などのコア地域が形成されました。
福井の鳥浜貝塚では丸木舟が、真脇では巨木環状列文化が、長野や関東では火焔土器、晩期の東北北部では土偶やストーンサークルといった特徴があります。寒冷化傾向が始まる縄文後期・末期までは人々の生活は安定していましたが、気温はかなり高かった時期もあって、さっさと避暑地の山岳部へ引っ越していったのでしょう。環境が良ければ人口の自然増ももちろんあります。
地図の遺跡発掘数は縄文時代の人口分布でもありますが、東西の境目にあたる、敦賀湾と伊勢湾を結ぶ列島のくびれは後の世にも境目になる所ですよねえ。例えば天下分け目の「関ヶ原」はこの区切り線上の真ん中ですし、言葉のアクセントや甘口辛口といった味覚も異なったりします。北陸や中京の平野は西のエリアに入れることとして、中部山岳から東北に向けてはやや暮らしぶりが異なっていくようです。
なにがあったのか?、昔の人はどう動いたのか動かなかったのかを、仮説の上で解いていこうというのが今回しリーズの目的の一つなのですが、さて、つづきは…イラストも作らねばならず、大変であります。 中田むしんど
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