とんとむかし12-馬場のぼるのネコ
国立金沢病院に入院してから1年ほどたって、ぼくは歩くこともベットに起き上がることもできなくなった。
寝たきりの生活で唯一の楽しみは漫画を読むことだった。秋田書店の月刊漫画誌「漫画王」をときどき親に買ってもらっていた。
ある月の「漫画王」の巻頭に手塚治虫の2色刷り作品が載っていた。民話 ” 鶴の恩返し “ を元にした話で、鶴の化身の娘のすらりとした素足に、子供ながらドキドキした覚えがある。そのころの手塚治虫の作品では別冊ふろくの「ぼくの孫悟空」なども読んだ。
「漫画王」で記憶に残るもう一つの作品は、馬場のぼるの少年と黒ネコを主人公にした作品。ぼくは森永ミルクキャラメルの中箱を広げ、それに鉛筆で黒ネコを真似て描いた。その絵を見た看護婦さんがすごく褒めてくれた。
子供は褒めて育てよ、というのは本当だろう。
国立金沢病院には3年もいたが、これといった思い出があまりない。
夜はいつも怖い夢を見ていたようだった。暗闇の中をただ落ちつづける夢。色付きの螺旋状の光にどこまでも追いかけられる夢…。昼もいつでも眠ていた生活なので、夜の眠りが浅く、そういう怖い夢を見たのだろうか。
怖いといえば、ある出来事があった。夜中に小児病棟の横にあったポプラの樹に登った男の人が飛び降りて死んだ。自殺だった。精神を病んだ入院患者か。男性は飛び降りる前に大声で「ーーー死んでお詫びします!! 」と叫んだそうだ。ぼくが直接聞いたのではない。母が付き添い仲間の女性と話していたのを聞いたのだ。直接だったら、もっと怖かったはず。死んだ男性はポプラに登るために、氷業者が大きな氷を運ぶときに使う、ギザギザ歯のついた鉄製のハサミを使用したらしい。その話がリアルで怖かった。
入院生活が3年近くなって退院の話が出はじめた。ぼくは退院を泣いていやがった。子供は環境が変わることが怖いのだ。そのころ父の末の妹の叔母さんが、羽咋から金沢の洋裁の専門学校に通っていて、ときどき見舞ってくれていたが「そんなに嫌ならおいてやったらいいがいね」と笑って味方してくれた。
それでもぼくは、ある日窓の外の夕焼け空をながめていたとき、不意に家に帰ろうと思った。
入院したときは歩いて入ったのに、退院するときは寝たきりだった。ぼくは10歳になっていた。
国立金沢病院から羽咋の家までは、病院が車を出してくれた。車はトラックで、自衛隊で見るような後部が幌に包まれた車だった。
田中雅紀(漫画家・金沢市)
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