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漁民化の頃、櫛の女性はいなかった 

日本人、縄文・三引の里をめぐって(8)

🐟 三引村の漁民化
🐟 🐟 🐟 ・・・・・・・・ 🐡

 とりあえずアニメができましたので掲載します。
 縄文海進の水位が高まり、まだ淡水だった七尾西湾に海水が流入しだします。グラフからBC5000年ころと推測できます(湖水面高が千年間変わらずBC6000年と同じとみなしています)。

 赤いクシが示す炭素14測定による年代はBC5200年なので、クシの女性は海水化の200年前の人です。問題はクシが貝塚にあったということ。他の女性がクシを譲り受け引き継いでも200年間も維持できたかはあやしい。クシの歯はほとんど残ってませんから、破棄し埋められたものが海進で浮き、貝塚遺物と混在したのかもしれません。

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 三引村は漁村化し貝塚を遺します。海進はさらに続き、村のほとんどは海水に飲まれ、離村を余儀なくされたとグラフから見て取れます。

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 縄文時代は死亡率が高く、特に出産や幼児の生育に問題があって平均寿命が16歳と書いた本もあります。彼らの社会は若さで支えられていたといえます。そんな中で比較的に長生きした女性がいれば頼りにされたでしょう。赤い漆塗りのクシの女性像ははっきりしませんが、小さな村全体が家族のような繋がりで維持されていたと思うと重要な地位だったでしょう。

 クシが当地で作られた可能性も高いと思われます。ボランティア・スタッフの筧さんは建築科卒ですが、クシの目は、弓の弦に砂などからませて糸鋸のように板を切ることで加工できる、と言っておられました。七尾西湾が外海と繋がってない頃なので、遠くの外来者が舟でクシを運び入れたと考えるより自前作が自然に思われます。この村が海からやや離れていたころ、木製品の制作品が海産物との物々交換に役立っていた可能性もあります。

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 遺跡からは多量の石錘(せきすい=漁網に下げる重り)が出たそうですが、三引が漁村であったのはグラフから長くて400年間ほどだったと推測でき、海進ピーク前に村は波に洗われ、この地から上方に移動せざるを得ない事態になったようです。が、もともと里山に依存した生活で、そう遠くに移ったとも思えませんが。

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 以前掲載の地図には三引の西側となりに「大津くろだの森遺跡」を赤丸記入しました。そこからさらに南下すると「印内(いんない)」という珍しい名の村があります。この名に魅せられるように大津地区にも出かけました。自然豊かな水郷でした。次回はそちらの報告をしたいと思ってます。 中田むしんど

スペーがス滝
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by spaceTAKI | 2020-11-26 22:16 | ☆歴史/能登.羽咋語源 | Comments(0)