とんとむかし-母の執念
金沢の国立病院を退院して、押水の家へ帰ってから間もなくぼくは死にかけた。
体のどこがわるいというのではなく、心も身体も生きる力が弱まったようなのだ。
寝間のぼくの床の周りに家族が集まった。当時、田中家は大家族だった。ぼくの両親に妹と弟。祖父と祖母。父の末の弟と妹。合計9人だった。ぼくは目をつむり死にかけていたが意識はあった。父が「喪章をつけようか」と言った。「まだ早やかろ」と誰かが言った。ぼくはその時 ” モショウ “ が何かわからなかったが、後にそれが葬式などで腕に巻いたり胸につけたりして弔慰を表すものだと知って少しおかしかった。ぼくは命をとりとめた。
母は田畑の仕事や家事を終えてから、毎晩寝る前にこの治療を続けてくれた。疲れて時どき居眠りをしながらも休まなかった。やがてそれが効いたのか、熱が出たり関節がはれて痛むこともなくなり現在にいたっている。リウマチの “ 気 “ が抜けたようなのだ。「あれで治ったんやぞ」母は後に言ったが、電気治療器が効いたのかどうかは分からないが、ぼくは母の執念が治してくれたのだと思っている。
リウマチが治ったと言っても、それまでに破壊されて固まった全身の関節はそのままで、寝たきりの状態は変わらなかった。ぼくは枕の横にインク瓶を置いてもらい、ペン先にインクをつけて大学ノートに漫画を描いたりして時間をつぶした。昼時には母が田畑仕事から帰ってきて、おしっこを取ってくれたり食事を食べさせてくれたりしたが、日中はほとんど1人で過ごした。
両親とぼくと弟が寝る寝間は広い家の北側の奥にあって、窓はあったが1メートル先は裏山の崖で、木も茂り昼でも薄暗かった。節約から昼間は電灯をつけない時代だ。薄暗い部屋の中でぼくは時間を持て余した。遠く、家の前の庭で妹や弟と近所の子供たちの遊び声が聞こえた。ぼくはぼんやりそれを聞いていた。そんな毎日が何ヶ月も続いた。ある日ぼくは母に「ワシもみんなと遊びたい」と言ったらしい。母の表情が少し変わったのを覚えている。ぼくの寂しさに気づいたようだった。
ぼくの寝床を家の前がわの庭に面した部屋に移してくれた。南向きの明るい部屋だった。
ラジオも聴けるようになった。大きな箱型の真空管ラジオだ。夕方に子供向けのラジオドラマをやっていて聴くのが楽しみだった。「紅孔雀」とか「赤胴鈴之助」などなど。落語や浪曲や講談も好きだった。妹や弟もこの部屋に来て漫画を読んだり遊んだりするようになった。
ぼくは毎日の中に楽しみを見出せるようになっていった。
田中雅紀(漫画家・金沢市)
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