奥能登「神和住」の語源
中田虫人 Mushind N.(Blog mgr.)
柳田植物公園は奥能登の中央部(輪島と珠洲の間)になります。お天気だといいのですが。


どの道路からアクセスするかにもよりますが、能登空港と柳田の中程に「神和住(かみわずみ)」集落があり、お通りだったら是非車から降り、道路脇の案内板をご覧になって見てはいかがでしょうか。ここの地名由来語源が面白いのです。
神がここで休憩(神休み=かみやすみ)から「かみわずみ」なった、というのです。神は私の住んでいる羽咋市の能登一宮・気多大社の主神:大国主命で、ここで休んだのは彼(=オオナムチ)率いる軍隊であり、奥能登に居た他の神の要請で、反抗的な一族を懲らしめにやってきた、といいます。大国主命は出雲の大神ですから、当時すでに能登に進駐して居たのは出雲の軍隊で、富山県で石動彦(いするぎひこ)、中能登では能登姫を制覇したように奥能登でも戦っていたことになります。
弥生時代の後期だろうと思いますが、このころは分からないことが多くて詳細な歴史事実は書けません。が、このブログのシーリーズで言いますと「最初に来た人々」の『次に来た人々』と言う話です。この人々はそれまでのアイヌ文化に代えて今に至る日本文化、なかんずく大和言葉を持ち込んだと思われる人々と言われ、戦った双方がその一派だったと言えます。ただし下層の兵には現地調達の縄文系の若手も組み込まれていたことでしょう。
最近の学者の説では、彼らはいわゆる海洋民族と言われる人々でして、中国大陸の南沿岸・稲作が早くから始まったとされる長江(=河口近くでは揚子江)から北上して韓半島南を経由しながら日本海に達したと考えられているようです。遺伝子学的には大陸にあった頃からすでに混合した民族なので、もとから雑種だったと言っていいでしょう。大きな特徴は文化的な意味の漢民族ではない、つまり黄河文明系と戦って負けたか、弾かれて海を頼ったか、落ち着き先を求めて日本列島にやって来た集団だっということでしょう。
もっとも一系統だけだったとはいえないし、彼ら同士仲が良かったともいえない。大集団としてまとまって居なかったし時間的にもバラバラゆえに、日本列島にたどり着いてからも争いが絶えなかった。いわゆる弥生の大乱を最初に持ち込んだ人々でもあります。縄文系人の人口が少なかった近畿以南は稲作に適した”葦原の国”ですから、急速に人口が増えていったでしょう。
ですから、大国主命(=北陸では「オオナムチノミコト」)が神和住で一旦兵を休憩させ、再び向かった奥能登の”反抗集落"にも、多分大和言葉を話す一団が居たのだと想像されます。そのまま進みますと珠洲市の軍艦島のある海岸あたりに出ます。ここの北、半島の先端近くには大国主の気太神宮(気多大社の前身)が存在した寺家(羽咋市)と同じく寺家地名が遺った地域があり、偶然とは言えない2地名と言えそうです。
途中、案内パンフの柳田植物公園や縄文真脇遺跡をその南域に置くことになりますが、先住の縄文人が大陸からやってきた”武神”たちに楯突いたとは圧倒的な武力差があるので考えにくいし、縄文真脇遺跡はその数百年以上前にすでに衰退しています(原因ははっきりしませんが)。
時期的にはそのころ北九州で初期の稲作が始まるので、真脇遺跡や三内丸山遺跡文化の衰退が海洋民族の移動と全く関係なかったと言い切れません。また、そもそも大陸で人口の7割が犠牲になった中国古代の長い戦争時代の原因は農耕文明が被りやすい気候変動にあると考えられているので、日本列島も大きく巻き込まれていったのだと考えていいと私は思っています。
いずれにしろ、第2派「次にきた人々」を書くのはあまり気が進みません。今に至っても3世紀・卑弥呼の居た邪馬台国論争さえ決着がついていないのですから素人の出番は限られます。
加賀地方ではオンドルの跡や小松駅裏からの多量な木製品(武器祭器を木製で再現したもの)の発掘など韓半島や銅器鉄器文化を示唆する発掘があり、大陸との繋がりが濃厚に遺っています。奥能登では今も伝わる数々の文化風習は独特のもがあり、韓半島の繋がりも当然あったことでしょうが、多くは今でも秘めたる”謎の国”です。アイヌ時代からの複層した歴史域でもありますから、興味はつきないのですが、ここでも弥生期の解明はむずかしそう。解明が待たれる処です。
その他の案内パンフなども掲載させていただきます。
山本さんの襖絵が見られるのはこの期間中ですが、一般開放されているお寺ではありませんので、山本さんに連絡の上、お寺さんへ紹介して頂いてからご覧いただくことになります。画伯は輪島市の出身で京都在住の日本画家ですが、今年金沢市にオープンするプールの水泳大会で70歳越え高齢者の部門の選手としてエントリーのつもりだそうです。(場所:京都府京都市東山区本町15丁目808・臨済宗東福寺塔頭 正覚庵)




