大国主(おおくにぬし)奥能登・神和住の戦い
中田虫人 Mushind N.(Blog mgr.)
前回のつづき、と言うより訂正に近い話です。
奥能登「神和住(かみわずみ)」の語源のことなのですが、以前撮った写真が今日やっと見つかったので改めてご報告いたします。

話の大筋は前回どおりでいいと思いますが、詳しい伝説の碑文ではややスケールが小さくなってローカルな物語となっています。この辺りのいくつかの地名由来にもなっていて、土地勘ある方にとっては私の説明では納得いかない、と思われるので改めての私説解釈を試みたく思います。


気を惹かれたのは、賊(鬼)の体には漆が塗ってあって矢がたたなかったという所です。漆文化は昔から能登に定着しており、三引遺跡(七尾市田鶴浜)の世界最古級の漆塗り櫛(くし)の話も既載しましたが、大陸の中国でも同じ頃の漆塗り櫛の発掘があります。攻める方が大陸系だとしても、双方が漆文化を担っていたと言えます。
伝説ごときにいちゃもんをつけるのも大人気ないですが、漆を直に体に塗れば害があるでしょうし、漆は樹脂に過ぎませんから、着物のようなもの、つまりせいぜい鎧の様な木製のガードに漆を施して身を包んでいた、と言うのはいかがでしょう? とすれば漆うんぬんは後付け理由に過ぎず、賊・猿鬼はなかなかの戦い上手だったので大国主も手を焼いたのが実情だといえますし、抵抗ぶりからみて徒党を組んだ集団と見ていいと思います。これはやはりアイヌ系先住民の抵抗というより、渡来系同士の小競り合いだったと考えるべきでしょうねえ。

話が前後しますが、伝説に出てくる碑文の地名は神和住と能登空港あたりまでの町野川上流域あたりに限られ、私が前回描いた珠洲市にまで至っていません。羽咋の大国主に援軍を依頼した姫も、輪島と穴水の中間にある三井の首長らしいので、大きな戦闘だったとは言えないようです。碑文では大国主派は一度退却して神和住で戦術を練り直していますから、猿鬼派も戦争上手だったのは間違いなさそうです。
また猿は、秀吉が信長から猿と呼ばれていたように、頭のいい奴という意味合いがあります。鬼も必ずしも悪のみを意味せず超人的な鬼神のことですから、名前からも一目置かれた勢力だったことが伺えます。
あくまで伝説ですから、史実がどうだったかは定かではありませんが、弥生時代、出雲勢力が手を伸ばした「越(こし)」の国というのは、ここ北陸の能登と富山を意味したでしょうし、出雲に渡った越人たちが当地で堤造りの土木工事をしたという言い伝えも、北陸からの人たち(捕虜として舟の漕ぎ手にもなったかも)だったと言えるでしょう。
が、謎として残るのは、出雲弁がなぜ東北弁であるのか、そこの人たちの遺伝子情報も特異であって、新潟の海岸には「出雲崎」地名が遺り、さらに北の青森に”縄文の都”三内丸山遺跡を遺した縄文人の人々がいて、彼らは寒冷化に伴って南下したとして、衰退後は何処へ散っていったのか。彼らと出雲は関係はないのか…。出雲人はいったい何者なのか、弥生期の日本海域の謎は深まるばかりです。

