人気ブログランキング | 話題のタグを見る

羽咋と七尾間の平野は舟で行けたか? 

2022年3月27日(日)

二つの川
中田虫人 Mushind N.(Blog mgr.)


明日3回目のワクチンを打つ予定です。コロナとウクライナ話の過剰刺激でどこかお疲れ気分です。気分転換向きのこの写真は、中能登町の中程から南東向きに撮ったもので、山向こうは富山県氷見市になります。

羽咋と七尾間の平野は舟で行けたか? _d0329286_12252349.jpg


道が突き当たる山裾の台地には縄文時代のウッド・サークル(環状木柱列)跡が出た井田地区の「堂坂遺跡」が埋め戻されてます。この山からは手前に2本の川が並行に流れ出て、平野に入ると左右に分かれて行きます。つまり細長い平野はこの辺りが一番高く、西は羽咋市、東は七尾市で海に至ります。

山から平野に出るとすぐ2本の川は最も接近しその間200mほどですが、合流してはいません。

私が気になるのは右の流れです。七尾方面ではなく、正面(北側)にやや小さめの平野が覗いているのですが、川はそちらに流れて行くのです。ここは古墳時代遺跡が多く「中能登町 古墳公園とりや」があります。さらに先に進むと七尾西湾に注ぎますが、縄文時代の最古の赤い漆塗り櫛が出た三引遺跡エリアです。

羽咋と七尾間の平野は舟で行けたか? _d0329286_11213217.jpg西に流れる川筋では葺石で覆った県で最大級の前方後方墳が眉丈山山頂にあり「雨の宮古墳」と名付けられています。が、どんな人物のものかは謎のままです。その平野を挟んだ向かいにはイリ系の王子の古墳があり宮内庁が管理しています。同じく平野を挟んで「鎌打ち神事」という奇祭が2ヶ所で継承されています。

記紀の記述や、山腹の焼けた建物遺跡から出た黒焦げの最古オニギリ遺物などなど、何かドラマチックな出来事がこの辺りで起こっていたのは間違いないですが、弥生・古墳時代に何があったかはよく分かっていません。

古代、稲作が定着した時代の二つの川は物流や灌漑に重要だったと容易に想像できます。常時小舟を使ったとして、最接近する場所の200mの陸地という障害ヶ所を除けば、平野の西端・羽咋の海(邑知潟)と、東(北)側の七尾西湾を水路で繋げ得ます。舟を陸に上げて200m移動させるか、人や荷を積み直せば良いのです。船は海岸線に沿って航行するのが基本ですから、能登半島を周回するより短距離で安全な東西運路として使えます。
小松市の学芸員にこの平野内の水路の感想を聞いたことがありまして、彼女も可との見解でした。

こんな話を書くのは、古代の出雲あたりで、ヤマトに追われた建御名方神(タテミナカタの神=出雲の大国主の息子)が新潟の糸魚川を目指し諏訪に逃げた際(古事記)、地元の地の利を利用しないはずはないと思うからです。私が長年持っている課題テーマではありますが、縄文期のように単純な時代ではありませんから、勉強すべきことが多過ぎ広すぎてなかなか進みませんのですけど。

▶️ 「息子はこう逃げた」へ

▶️ 「堂坂の縄文環状列柱」へ


スペース滝 925-0005 石県羽咋市滝町レ99-88

by spaceTAKI | 2022-03-27 11:29 | ☆歴史/能登.羽咋語源 | Comments(0)